Struggles of the Empire 第1章 伝説の終焉(9)

 条約調印を終えた今、即、イゼルローンなりハイネセンなりに進発しても良かったのだが、せっかくだから、礼儀の上から言っても、イゼルローン共和政府代表として皇帝ラインハルトの葬儀に出席するべきだろうとユリアンとフレデリカの間で話がついて、ユリアンアッテンボロー、カリンはもうしばらくフェザーンに滞在することになった。
 イゼルローン要塞の接収に赴くのはミュラーに決まった。ミュラーが生前のヤン・ウェンリーに会ったことがあり、ヤン・ウェンリーの葬儀にも弔問に赴いたことから、ヤン艦隊にとってはもっとも馴染みがある帝国元帥であったし、宇宙艦隊司令長官の任にある者を派遣することで帝国としても最大限の敬意をイゼルローン共和政府に払った形になる。
 接収に伴う事前の事務処理について話し合うという名目でアッテンボロー宇宙艦隊司令部にミュラーを訪問しており、実際には用兵にかけては互いに一家言ある者同士、過去の会戦を肴にして、美味い酒を飲んでいた。
 カリンは高等弁務官事務所公邸のキッチンで、アップルパイを焼くべく奮闘していた。
 女はこうしなければならないと押し付けられるのが嫌で、世間的にいわゆる女らしいとされることはすべて避けて通ってきたカリンである。当然、料理なんてやったこともない。けれどもユリアンと付き合うようになってからは、キャゼルヌ夫人から簡単な料理の作り方を習うようになった。ひとつには、ユリアンが料理上手だったからである。
 ヤン家に来る前からも自炊をしていたユリアンは、単にしなければならないからと言うよりも、もっと積極的な理由で料理が好きだった。手の込んだ料理も作れば、日常の、予算も手間もそこそこでなおかつ美味しい料理を作るのも好きだった。付き合うようになってからカリンは何度もユリアンの手料理を食べていたが、イゼルローン共和政府軍の指揮を執る人間が、てきぱきと料理をするのを見て、男だからどうしたとか、女だからどうだということにこだわる自分がカリンはバカバカしくなったのである。
 自分は料理は出来ない、それはむしろ、キャリア志向が強かったカリンにとって、自立する女としての誇りだったが、どういきがったところで、出来ないことは出来ないことなのだ。ユリアンは自分が料理を作るのが好きなものだから、カリンに無理にやらせようとはしなかった。まして女だからあれをしろなどとは決して言わない。
 言わないからこそ、すべての家事をそつなくこなすユリアンと比較して、我ながらカリンは自分が何一つできないことに呆然とした。二人が一緒に暮らし始めれば、ユリアンは当たり前のように家事のすべてを自分一人でこなしてしまうだろう。これでユリアンが仕事が出来ないとか、やたら泣き虫だとか、そういう泣き所があればカリンもそこは任せといてと思うことが出来たのだろうが、改めて考えてみれば、ユリアンにはこれという欠点は見当たらない。
 温厚で、有能で、責任感が強く、素直で、周囲に可愛がられ、皇帝や皇太后にまで好意を持たれている。見かけだって、ハンサムというしかなく、運動神経だっていい。
 ユリアンが完璧な人だから好きになったわけではなかった。ヤンの死後、未熟ながら歯を食いしばって責任を果たそうとしている姿を見て、少しでも力になってあげたいと思ったのだ。
 けれども冷静に考えてみたら、自分が一体何の力になれるというのだろう。時々そう感じてしまって、沈んだ表情を浮かべるカリンを心配して、ユリアンがかたわらにそっと坐り手を握る。その優しさが嬉しかったが、ユリアンに余計な心配をかけてしまったことに自己嫌悪に陥ってしまう。
 こんなんじゃだめだ、とカリンは思った。あたしが落ち込むのはあたしの勝手だけれど、ユリアンを心配させるだけなんだから、落ち込んでいる暇があったら料理の一つでも覚えた方がいい、とある時、カリンは開き直ってそう思ったのだ。
 アップルパイはキャゼルヌ夫人から教わった一品だったが、2回に1回はまあまあ食べられるものが出来るくらいにはなっていた。
 焼時間が大事なのよ、と焼時間の目盛に顔を近づけて、カリンはダイヤルを回した。
「オーヴンの大きさから見て、それじゃたぶん焼き過ぎになっちゃうかな。あと、5分焼時間を減らせばいいと思うよ」
 後ろから声をかけられて、ひっ、とカリンは声を上げた。
「あ、ごめん。驚かせちゃったかな」
 じろりとカリンはユリアンをにらんだ。
「あんたね、女優の楽屋にのこのこ入ってくるなんてどういうつもり?」
「え?君って女優だったっけ。それにここはキッチン…」
「そんなこと分かってるわよ!この鈍感男!」
「ど、鈍感って、なんだかずいぶんひどい言われようだな…」
「しのごの言ってたらアップルパイあげないからね!」
「あ、僕のために焼いてくれているんだ」
 ユリアンはにこにこと笑った。カリンは呆れたようにユリアンを見て、呟いた。
「あんたのためじゃないわよ。自分の分とアッテンボロー提督の分、かわいそうだからあんたの分も焼いているだけ」
「うん、かわいそうだから僕の分も焼いてくれているんだね。ありがとう!」
 時々、反応が素直すぎて、こいつは皮肉で言っているのではないかと疑ってしまうカリンだったが、深く付き合っていると、苦労が多かった半生のわりにはユリアンの素の精神が真っ直ぐすぎて、自分の方が赤面してしまうのだった。
 さてと、とオーブンの前から立ち上がったカリンに、ユリアンが後ろから覆い被った。
「ちょっと、こんな場所でなにしてんのよ」
「なにしてんだろう。うん、なんだか君を手放したくなくて」
「はあ?何言ってんの?それって拘束?」
「うん、君を他の男たちにわたしたくない」
「バカじゃないの?あんたのものじゃなかったら、あたしが今ここにいるとでも思ってんの?」
 ユリアンはカリンの頬に、そしてその唇にキスをした。
「ねえ、カリン。アッテンボロー提督にパイを焼いてるって聞いて、嫉妬したって言ったら笑うかい?」
「呆れるわよ」
「どうしよう、君に嫌われるかな。僕はどんどん嫉妬深くなってしまいそうだ」
 ユリアンはもう一度、カリンの唇を求めた。
「あのねえ、そんなことを言うくらいなら、その辺の女に騒がれる癖、なんとかしなさいよ」
「ええっ、そんなことあったかなあ」
「こないだ買い物に行った時にも女の子たちに囲まれていたじゃないのよ」
「道を訊かれただけだよ」
「そうね、地元の学校の制服を着た女子学生さんたちにすぐそこに見える駅の場所を聞かれて、なぜか腕まで組まれていたんだものね、あんた、あれを『道を訊かれただけ』っていう?」
「向こうが腕を組んできただけだよ。僕は振り払ったからね。それで言うなら君こそ買い物のたびに何人の男に声をかけられてるんだよ」
「あんたが食材選びに熱中して、あたしの隣にちゃんといないからでしょうが!」
フェザーンの野菜って独特だから。どういう料理にしようかなって考えたらつい」
「ええ、そうでしょうよ。どうせあたしはピーマンほども興味を引かない女ですよ!」
「そんなことないよ。1000個のピーマンより僕は君の方が好きだよ」
「ねえ、あたし本気で不思議なんだけど。そう言われて喜ぶ女がこの世にいると思ってるの?」
「なんで僕たちは言い争いをしてるんだろうね!」
「知らないわよ!」
 ふいにユリアンはカリンを抱き上げて、唇で口にふたをした。
「…あんた、やることがどんどん姑息になっていくわね」
「君を手に入れるためならどんな卑怯なことだってやるさ」
「だからバカって言うのよ。もう手に入れてるのに」
「カリン。結婚して欲しい」
 余りにも直球の、突然の言葉に、カリンは言葉を失った。いつものように憎まれ口をたたこうかと思ったが、声が出て来なかった。その代わりに、小さくうなづいた。
「愛してるよ、カリン。愛してるって言って」
「調子に乗ってんじゃないわよ、鈍感男」
「愛してるって言って」
 カリンは小さな声でそっと言った。
 この日からふたりの人生は死が互いをわかつまで、ひとつに重なったのである。