Struggles of the Empire 第1章 伝説の終焉(10)

 イゼルローン共和政府は銀河系の中にあって孤立していて、交易も周囲と行っていなかったから、実際には自給自足であり、経済的には限りなく社会主義体制に近かった。しかし、政府と軍を解散するにあたって、差し当たり必要になるのは外貨である。この場合は帝国マルクか、帝国マルクと交換権がある自由惑星同盟の旧通貨ディナールであった。
 ヤン・イレギュラーズがハイネセンから逃亡した際には、なにぶん急な話だったので十分な金融的手当てが出来なかったが、イゼルローン要塞を再奪取した際には、十分すぎる額の帝国マルクを接収した。もっとも、交易も出来ないとあっては、これまではその帝国マルクも文字通り宝の持ち腐れだったのだが、将兵たちに退職金を支払うには役に立つ。
 ただ、それを使っていいかどうかである。帝国と結ばれた条約では、おおわくで決められていたのは、イゼルローン共和政府はイゼルローン要塞を帝国に引き渡す、帝国はバーラト星系をバーラト自治共和政府としてイゼルローン共和政府に引き渡す、バーラト自治共和政府は軍を解散するということだけであって、付随する資産の扱いには解釈の余地が残っていた。常識的に言うならば、イゼルローン要塞を再奪取した際に置かれていた金融資産については、要塞に付随するものとして扱うべきだろうが、イゼルローン共和政府が存続していた期間においてそれをどれだけ消費したかについては帝国としても調べようがない話である。
イゼルローン要塞の接収、および当方によるバーラト星系の接収が行われていない現時点では、イゼルローン要塞は未だ当方の管轄下にある」
 とのキャゼルヌの強引な解釈により、将兵や役人・軍属たちに対する慰労金の現物支給が行われた。口座振込に出来なかったのは、帝国領において彼らイゼルローン共和政府軍の将兵の銀行口座が差し押さえられていたからで、原始的な現金支給と言う形になった。退職金ではなく慰労金という名目なのは、現時点でイゼルローン共和政府がイゼルローン要塞を法的に支配しているという前提に立つならば、現時点で軍も解散していないからであり、退職金という名目は使えないからであった。
 中央値でおおよそ7万5000帝国マルクをひとりあたり支給し、それは2年程度は遊んで暮らせる額であった。新生活を築くうえで、足掛かりとしては充分であっただろう。兵に厚く支給するために、将官級への増額は抑えられたが、将官の多くは、自治共和政府の要職に横滑りする可能性が高かったから、それでよいという判断もあった。イゼルローン共和政府の行政機構、そしてその軍の事務処理のほとんどはキャゼルヌが一手にこなしていたから、この時期のキャゼルヌの多忙ぶりは殺人的であった。そのような状況下で、家庭に仕事を持ち込まず、きちんきちんと毎晩、夕飯を夫人と娘たちとともにとっていたキャゼルヌは、いったいどれほどの処理能力を持っているのだろうと事務屋たちからは呆れられるほどにその能力は傑出していた。
 その日の晩も、フレデリカを招いてささやかな祝いの晩餐がキャゼルヌ家で開かれた。
「弟子が師匠を越えたというのはこのことだな。ユリアンはヤンのようにはぐずぐずはしなかったか」
「好きあっている者同士が結婚するなら、何も時間はかけないほうがいいですからね」
 フレデリカにユリアンとカリンから、結婚することになったむね、報告があったのは今朝のことであった。
ユリアンもカリンも嬉しそうでした。ヤン提督も、シェーンコップ中将も、喜んでいることでしょう」
「まあしかし、結婚式は合流してハイネセンであげるのは結構だが、ユリアンフェザーンで勉強すると言うのは正直痛いな」
「あなた、ユリアンはもう十分に自分の務めを果たしましたよ。戦争が終わるなら、これから先は好きにさせてあげたっていいじゃないですか」
「もちろんそうだ。当人にどうこう言うつもりはない。ただ、革命軍司令官が自治共和政府の要職から離れることは、自治共和政府の求心力の観点から言って痛手ではある。もちろんヤン夫人がいてくれれば、乗り越えられないわけではないがね」
「ええ、私はもうしばらくは表にしゃしゃりでるつもりですから、どうぞ今後ともよろしくお願いします。歴史を学ぶのはヤンのそもそもの志だったわけですから、ヤンも重ねて喜んでいると思います」
 フレデリカのその言葉に、そう言えば、とキャゼルヌはむかし話をした。
士官学校で戦史研究科が廃止される時、ヤンは頑強に抵抗してね。キャリアから言えばエリートコースの戦略研究科に編入されるのだから、普通の連中なら万々歳だったろうが、奴は歴史が勉強できなくなると言って、ごねていたなあ。後にも先にも歴史を勉強するために士官学校に入った奴なんてやっこさんくらいのもんだろうよ。それが何の因果か、果ては元帥になったわけだ」
「ご当人は元帥丈よりも歴史の本の方を喜んだでしょうね」
 キャゼルヌ夫人の言葉に、キャゼルヌはうなづいた。
「まったくだ。言ってもせんないことながら、偉くなるよりは生きていて欲しかった。もう一年になるがね、正直言ってなかなか慣れない。今でもやっこさんがふいに訪ねてきそうで」
「あなた」
 ふいにめがしらを抑えた夫をキャゼルヌ夫人は、優しい声で、しかし軽く叱責するように促した。ヤンの死を誰よりも悼んでいるのはその妻のフレデリカではないか。そのフレデリカの目の前で、軽々しく、感傷に浸るべきではない。
「ありがとうございます、キャゼルヌ中将。夫にとっても中将は得難い友人であったと思います。これからも、そうであってください」
 フレデリカはにっこりとほほ笑んだ。
「ああ、そうだな。ユリアンの結婚式だが、新郎側の父親役は私が務めさせてもらおう。ヤンはさぞや悔しがろうが、いい気味だ」
「それじゃあ、私はカリンの母親役をさせていただこうかしら。シェーンコップ中将にも、カリンのことは頼まれていたのだし」
「なに?シェーンコップがおまえにそんなことを頼んでいたのか?俺は聞いてないぞ」
「あら、貞淑な妻だからと言って、私が女ということをお忘れなく。女にはひとつやふたつ秘密があって当たり前ですからね」
 イゼルローン要塞の接収にはミュラーがその任に当たると聞いている。皇帝ラインハルトの葬儀が済み次第、ミュラーフェザーンを出発する予定だが、常識的に言って最低でも到着までひと月はかかるだろう。それからハイネセンに発って、おおよそ20日かそこら、おおむねユリアンたちと合流するのは二ヶ月後になるだろう。