Struggles of the Empire 第8章(終章) 両雄の勅令(2)

 あの会見から4日後、メディアを避けるようにして大学に赴いたユリアンは、指導教授に今後の授業を通信を介して行って欲しい旨を伝え、了承の返事を貰うと同時に、幾つかの課題を与えられた。大学図書館でその下調べをしていた時、前の席に背の高い男性が腰を掛けて、ユリアンに声をかけた。
 ケスラーだった。
「ケスラー元帥、こんなところでお会いするとは。軍服を着ていらっしゃらないお姿を拝見するのは初めてです」
 ケスラーは、濃い灰色の背広を着ていた。
「大学を訪れるのに、軍服を着ていては無粋というものだろう。実は卿に話があるのだが、ここ数日、大学に籠りきりのようじゃないか。仕方がないからこうして足を運んだ。学問の邪魔をして申し訳ないが、そろそろ昼食時だ。お詫びにランチを奢るよ」
 ケスラーがユリアンを連れだしたのは構内にある教員専用のカフェテリアで、パーテーションで区切られている個室もあった。ケスラーはあらかじめ、学長に使用許可をとっていたのだった。
 会話しながらのランチになるのだろうと見越したユリアンは、会話の邪魔にならないサンドイッチとコーヒーを頼み、ケスラーの用件を聞いた。憲兵総監が世間話をするためにわざわざ足を運んだとは考えられなかったからである。
「おそらく卿にとっては意外なことではないだろうが、帝国同胞団の幹部の中で、オリビエ・ポプランとクロジンデ・フォン・メルカッツの行方が知れない。オーディーンでの足取りがふいに途絶えている。まるで誰かが脱出用のシャトルを用意していたかのようだ」
「用意してたんじゃないんですか?別に逃走用の手段を事前に用意していたとして不思議はありませんが」
「ところが、ゾンネンフェルスは用意させていなかったようなのだ。逮捕はしていないが、中級の幹部たちの足取りは追えている。彼らはすべてオーディーン内に潜伏している。その中にポプランとクロジンデ・フォン・メルカッツの名だけがない」
「ケスラー元帥。私にはよく分からない事情ですが、むしろ彼らの足取りが不明だというならそれに越したことはないのではないでしょうか。ポプラン中佐も、そしてメルカッツ提督の娘さんも、私たちヤン艦隊の面々にとっては大事な人です。その人たちを逮捕されて粗略にでも扱われれば黙っているわけにはいきません。むろん、彼らが姿を現せば、憲兵隊は逮捕しないわけにはいかないでしょう。両雄の勅令の精神を重んじるならば、帝国と同盟、ローエングラム王朝とバーラト自治政府はこれから互いに助け合わなければなりません。その仲を引き裂きかねないポプラン中佐らの扱いを、行方不明ということで棚上げ出来るならそれに越したことは無いですよね」
「確かに以前、私はもしバーラトが噛んでいるなら、うまく取り繕えと言った。皇太后陛下のお考えを踏まえれば、バーラトと対立するわけにはいかなかったのでね。しかし実際にはバーラトは関与していなかったのだろう。それは判明している。ポプランが騒乱に加担したのは彼個人の判断だろう。ならば犯罪としてこれを処断しないわけにはいかない」
「たとえそうであったとしても、ポプラン中佐は私たちの仲間です。申し上げておきますが、ヤン夫人もキャゼルヌ中将も、アッテンボロー提督も、決してポプラン中佐を見捨てることはしないでしょう。帝国が彼を敵として扱うというならば、ヤン艦隊全体が敵になるまでのことです。もちろんその中には私もカリンも含まれています」
「うむ。念のために聞いておくが、卿はその言で以て、私を脅迫しているのか」
「私は事実を申し上げているだけのことです。ご理解いただけると思いますが、どれほど友好を尊重したとしても譲れないものは誰にでもありますから」
「ところでだ、ヘル・ミンツ。卿の口座から最近、巨額の金額が失われているようだが、使い途を伺ってもよろしいだろうか」
「一般市民の口座は守秘されるべきであって、それについては黙秘するのが妥当だと思います」
「卿が果たして一般市民と言えるかどうかはなはだ疑問だが、まあいい。先ほどの卿の言う棚上げ論はなかなかに説得力があった。今回は卿に免じて、説得されたということにしよう。卿には我が王朝に対して、多大なる功績もあったのだし。ただし二度目は無いと思って欲しい。今回のようなことが再び無いよう、卿も卿の仲間に対しては十分に警告を発しておくことだな。それこそ誰にとっても譲れないものはあるのだから」
「ご忠告のとおりにいたしましょう」
「ところで、さすがにあれだけの金額が無くなれば、卿の今後の生活にも響くのではないか。子も産まれるということだし、グリューネワルト大公妃殿下をお守りした件にしても、ワーレンを慰問した件にしても、そして無論、先の勅令の件にしても、卿は実際、多大な貢献を国家に対して為している。皇太后陛下に申し上げれば同額以上の相応の慰労金が下賜されるはずだが、お節介を承知で言うが、卿自身はともかく卿の妻子のためには、意地を張らずに下賜金を受け取るべきではないか。そのつもりがあるなら、すぐにでも私の方から皇太后陛下に報告しておくが」
「まあ、当面、私が学生でいる間の生活くらいはなんとかなるでしょう。大学を出れば働くまでのことです。どこかの高校ででも歴史教師をやれればいいと思います。生活するために働く、みんなやっていることです。ご配慮いただくには及びません」
「卿ほどの人物を一教師に雇う学校が果たしてあるかどうか。ならばせめて、ヤン夫人には事情を話したらどうか。卿の独立心は賞するべきだが、彼女を家族と思っているならば、苦境のことを話されなかったと後で知れば、彼女は傷つくだろう」
「ご忠告ありがとうございます。今はまだ苦境と言えるような状況ではありませんので、いよいよになればもちろん“母”を頼るつもりです。私としても、妻に対して偉ぶりたい欲求はありますから、まあまずは自分でやってみようと思います」
「ヘル・ミンツ。卿はおそらくワーレンやミュラーに対してほどは私に対しては無条件に親愛の情は抱いていないのだろうな。むろん、憲兵総監という任に私がいる以上、それも無理もないことだ。実際、ワーレンやミュラーだったら言うはずもない嫌なことを私はずいぶん卿に対しても言った。しかしどうか、私としても卿に対しては友情を感じていることは疑わないでほしい。もし、本当に困ったことがあったなら、どうか意地を張らずに私を頼って欲しい。どうしても私に頼るのが嫌なら、せめてワーレンやミュラー、皇太后陛下を頼って欲しい。みな、卿に対しては友情もあれば恩義もあるのだから」
「ありがとうございます。友情と言う語を使わせていただけるのなら、私もまたケスラー元帥に対してその念は抱いています。お互いに年を取り、引退して、現在のことがすべて遠い過去になったならば、銀河帝国の秘史を伺わせていただくことを楽しみにしています。これは友人という名目を借りた、歴史家としての欲でしょうが」
 ユリアンのその言葉に、ケスラーは穏やかに頷いた。その時が来たならば。暖かい暖炉の前で、冷えたワインを開けて、夜通し語り尽くそう。この時代を共に生きた者として。
 ケスラーの眼差しはそう語っているようだった。
 ケスラーを心配させたミンツ家の経済状況は、この年の暮れまでには大幅に改善された。夏の終わり頃に、ユリアン・ミンツが初の著作となる「ヤン・ウェンリー語録」を出版したからである。ヤン・ウェンリーの言葉は公式に発言されたものはむろん記録され流布していたが、ユリアンはその著作の中で、ユリアン個人に対して語られた私的な語録を大幅に加えたために、ヤン・ウェンリーの人間像がより正確に、鮮やかに描き出されたのであった。人々はそれ読み、ヤン・ウェンリーが単に軍事的天才にとどまらない、良き教師であり、細やかな配慮をした保護者であったことを知った。
 この著作は新帝国暦4年最大のベストセラーになり、何十年にも渡って売れ続けた。この著作によってユリアンはポプランのために使った金額の何十倍もの印税収入を手にすることになった。