Struggles of the Empire 第4章 ワルキューレは眠らず(6)

 アンネローゼの茶会には、通常、政府・軍高官、複数人が招かれ、これまで政治にまったく関与しなかったアンネローゼが、万が一、皇位を継承した場合、人脈的に孤立することがないよう、ヒルダの提言で行われているものだった。多くの場合、傍らに乳飲み子の皇帝アレクを同席させ、乳飲み子であるがゆえに、多くの高官は皇帝に対面したことはなく、自分たちが仕える主君に面会させるという意味合いも持っていた。
 今日の招待客はミュラーひとりであり、皇帝の同席も無かった。これはもちろん、見合いの意味合いがあることをミュラーは分かっていたが、アンネローゼには何も知らされておらず、軍の重鎮の一人をもてなす心づもりであった。
 ラインハルト旗下の提督たちのうち、アンネローゼと最も親しかったのは言うまでもなくキルヒアイス、次いでロイエンタール、ミッターマイヤーであった。オーベルシュタインやケスラーとも接触はあったが、それ以外の提督たちについてはそれほど頻繁な交際は無く、ミュラーは提督として台頭したのが、アンネローゼが隠棲生活に入った後のことだったから、きちんと対面するのは今回が初めてだった。
ミュラー提督はアールグレイでおよろしい?」
 手づからにアンネローゼが紅茶を注いだ。
「これは大公妃殿下じきじきにおいれくださるとは恐縮です」
「そんなに大袈裟におっしゃらないで。よろしかったら、こちらのスコーンも召し上がってくださる?さきほど私が焼いたものですの」
「妃殿下のお手製とは、ますますもって恐れ入ります」
「そんなスコーンくらいで」
 とアンネローゼは笑った。元々、美しい女性であったが、笑うと陶器人形のような冷たさが消えて、頬が薔薇色に染まり、美しさに加えて華やかな魅力が添えられるのだった。
「ラインハルトとジークは、いっぺんに10個も20個も食べたものでした。そんなに押し頂いて、召し上がっていただくほどのものではありませんから」
 勧められるがままにスコーンを口に含むと、焼き立てということもあるが、小麦とミルクの風合いが爽やかに鼻に抜けて、簡素ではあるが絶品であった。
「これは、美味ですね。妃殿下は今も料理をなされるのですか」
「子供の頃からの習慣ですから。本当は、料理を作ってくださる方がいらっしゃるのだから私などがどうこうするのもよくないのでしょうが、こればかりは習慣が抜けません。フロイデンの山荘にいた時には、我がままを言わせていただいて、自分で料理を作っていましたのよ。後宮にいた時も、皇帝陛下にお願いして、自分用の台所を作っていただきました」
 アンネローゼの後宮時代のことはあたかもタブーであるかのように扱われていたが、当人は何の気負いもなく、口にした。メックリンガーから聞いた、フリードリヒ4世との生活もそれなりに幸福なものだったというヴェストパーレ男爵夫人の見方を、ミュラーは思い出した。
ミュラー提督にはもっと早くお会いしてお礼を言わなければなりませんでした。のびのびになったことをお詫びいたします。ラインハルトを何度も救っていただいたと伺っています。改めて、お礼を申し上げます」
「いえすべては先帝陛下の用兵によるものであって、小官はそれに従って行動したに過ぎません。過分なお言葉いたみいりますが、そのようにお気遣いなされるには及びません」
「それでも私は感謝しています。ラインハルトもそうだったでしょう。今日、ヒルダさんとアレクとの平穏な暮らしがあるのも、提督のおかげと思っています」
 そう言われて、ミュラーは、更に恐縮したが、そう言って貰って、一歩を踏み出す勇気を得た。
「妃殿下、宮内省からはこの茶会では通常、招かれた者が自分の仕事を簡単に説明するのが恒例となっているようです。しかし今日は妃殿下のことをお伺いしてもよろしいですか」
「まあ、なんでしょうか。答えられることならいいのですが」
「妃殿下はおしあわせですか」
 改めてそう聞かれて、アンネローゼは少し考え込んだ。
「ごめんなさい、あんまり考えたことがなかったものですから。不幸ではないのだから幸福なのだと思います。今はもういなくなってしまった人たち、ラインハルトやジークフリード・キルヒアイス、私の両親、そして亡き皇帝フリードリヒ4世陛下、そういう人たちが、今いらしてくださればと思うことはあります。振り返ってみれば、その時々でみなさんに助けられて、生きて参りました。去った人々を懐かしく思うと言うことは、過去においてもしあわせだったのだろうと思います」
「少女の頃に皇帝に無理やり寵姫とされたことも、おしあわせだとおっしゃるのですか」
 そう言ってすぐに、ミュラーは男としても臣下としても、言ってはならないことを口にしたことに気づいた。しかしミュラーは、ラインハルトがただ姉を後宮から救いたい一心で、銀河の覇業を志したことを知るだけに、アンネローゼの態度はラインハルトに対する裏切りのように思えた。
「はい。貧乏な下級貴族の家に生まれて、弟と寄り添って生きてきたこともしあわせだったと思いますし、父の晩年を、少なくとも経済的にはそれなりに潤すことが出来たのもしあわせだったと思います。今はもう亡き方でご自分では弁護できないお方なので、私から申し上げますが、皇帝フリードリヒ4世陛下は女色におぼれていたわけではなく、陛下を利用しようとして近づいた私を敢えて受け入れてくださったのです。私の貧しい境遇を憐れんで、拒絶をすれば私が不名誉を負い、路頭に迷うことをご承知の上で、敢えて女色に溺れたという汚名をかぶってくださったのです。私が一方的に被害者だったわけではありません」
「それを、先帝陛下、弟君にお話になられましたか」
 その問いかけにアンネローゼは答えなかった。
「弟君は皇帝フリードリヒ4世陛下を恨んでいらっしゃいました。それが誤解に基づくというならば、なぜそれを解こうとなさらなかったのですか」
「お答えしましょう、ミュラー提督。第一にそれは私の意思でした。第二にそれは皇帝フリードリヒ4世陛下の意思でもありました。あなたのおっしゃる通り、弟は私を救うために銀河の覇業を望み、それを達成しました。逆に申し上げれば、私を救う必要がなければ、弟が覇業を志す理由もありませんでした。私の望みは、弟が克己して、身を立て、ミューゼルの家名を上げてくれることでした。若くして将官になり、伯爵家を立ててくれたことで、私としてはそれで充分すぎるほどに充分でした。ただ、フリードリヒ4世陛下はそれ以上のことをラインハルトに託しました」
「それはゴールデンバウム王朝を倒し、銀河帝国を中興させることですか」
 アンネローゼは頷いた。
 ミュラーは衝撃を受けていた。状況に流されるだけのたおやかな女性?とんでもない。ミュラーは目の前の女性を見た。数分前とはまったく違って、どこか魔女めいた陰りが横顔に差していた。この女性は今日の状況の母胎となったのみならず、それを企画し、実行し、実現したのであった。
「あなたは弟君や、ジークフリード・キルヒアイスをその意思のために利用したのだと分かっていらっしゃるのでしょうか」
「もちろんです、ミュラー提督。私はそういう女です。そういう女だと分かっています」
 分かっていればこそ、自分自身をも駒にしようとしているのか。
 帝国を守る、王朝を守る、父や弟が残したミューゼル家を守る、そのためならば、何のためらいもなく、この女性はなすべきことをなすだろう。
「健気でいらっしゃると申し上げるべきかも知れません。しかし小官はただひたすら、何の見返りもなく、弟を見守る姉でいらっしゃって欲しかったと思います。残念です」
 その言葉が真情から滴り落ちただけに、アンネローゼの胸はそれによって突き刺された。涙が出そうになったが、自分のために泣く資格がないことをアンネローゼは思い出して、ただ、顔を伏せた。
「家のために、国家のためにそうなさったことはもちろんご立派です。ご立派ですが、どうして一人の女性としてそこまでご自分を貶められるのでしょうか。先帝陛下やご両親、キルヒアイス、それにフリードリヒ4世陛下があなたさまにそうなされることを望んでいるのでしょうか」
 うつむいたまま、アンネローゼは立ち上がった。そして深々と礼をした。
 茶会の終了の合図であった。