Struggles of the Empire 第4章 ワルキューレは眠らず(7)

 ナイトハルト・ミュラーは明朗闊達な性格で、温厚な人物であり、精神状態は安定していた。それだけに、ここ数日の落ち込みようは平静を装っていても傍から見てはっきりと分かるものであり、頭を抱えたり、ため息をつくミュラーに何と声をかけていいものか、副官のドレウェンツ大佐はなすすべもなかった。
 アンネローゼにきついことを言った直後から、ミュラーは激しく後悔し、時間がたつにつれ苛みは増した。男性としても、臣下としても言うべき言葉ではなかった。縁談をふられて、変に意識していたとは言え、あのように一方的に責めるような言い方は、ミュラーは他の誰にもしたことが無い。言わば、人生で初めてきつくあたった相手がグリューネワルト大公妃であったとは、よりによってもほどがあろうというものだった。
 ヒルダか、ミッターマイヤー夫人を介して、謝罪の言葉を伝えて貰おうかとも思ったが、そう思えば、いや、自分は何も間違ったことは言っていないとの気持ちが生じて、断じて謝るべからずと思った。しかし、またしばらくすれば、いや、そんなどちらが悪いというような話ではない、妃殿下を傷つけたのならば謝るべきだろう、との思いも生じた。
 結局、二日三日と日が過ぎて、その間、ミュラーはアンネローゼのことばかりを考えていた。彼女が何を思って今まで生きて来たのか、何が彼女をそうさせたのか、頭で非難するのではなく、気持ちに寄り添って理解してみようとした。事がなかなか難しかったのは、やはり両者の境遇が違い過ぎたからである。
 ミュラーという姓は平凡であるが、ナイトハルト・ミュラーミュラー家はアイゼンヘルツ星系の富豪であり、フェザーンに隣接して手広く交易を営んでいた。ミュラーの父は先妻と後妻との間に14人の子をもうけた。ミュラーはその末子である。家族と富に守られれて、陰りのようなものは一切ない幸福な少年時代を送った。対してアンネローゼは貴族とは名ばかりの貧窮した帝国騎士の家に生まれ、電気も停められるような生活を送った。唯一頼るべき父親は社会的落伍者であり、何の力もなく、才能あふれる弟に将来への道をつけてやりたいと思っても、幼いアンネローゼにはどうしようもなかった。いや、どうしようもないと諦めるのではなく、アンネローゼはそこから立ち上がり、父に平穏な余生を、弟に才能に見合った未来を与えるために、人生と戦い、それをもぎとったのである。
 まだ年端もいかぬ年齢で、ミュラーが年長の兄弟たちに甘えていた頃に、アンネローゼは人生の戦いをたった一人で開始して、孤立無援で戦い、勝利したのであった。
 ミュラーも宇宙では数倍する敵に立ち向かったこともあったが、幼少の頃にたった一人で、父と弟の人生を背負って戦うのは、会戦で敵にあたるよりも勇気が要ることはミュラーにも分かった。
 ミュラーが責めたのは、少女が生きるためにそのような大それた戦いを挑まなければならないこと、あるいは少年がただ姉を救いたい一心で銀河を征服しなければならないこと、年幼い者たちにそのような人生を強いるこの世界そのものであったのかも知れない。それなのにその中でもがきながら生きてきた者をミュラーは責めてしまった。
 哀れ、というだけではない。申し訳ないという気持ちだけではない。それらが混ざったような、あるいはそれらとは全然違う気持ちで満たされてゆくのをミュラーは感じた。
 それは同情であろうか。もっと別のものであろうか。
 ミュラーはただ、アンネローゼが悲しければ泣いて欲しい、腹が立てば怒って欲しい、時には嫌味を言ったり、人の悪口を言って欲しいと思った。アンネローゼはいつも春風のようなたおやかさをたたえていたが、春もあれば夏も冬もあってこそ人生である。怒ったり、泣いたり、笑ったりしてこそ人間である。
 アンネローゼは完璧な寵姫であり、完璧な皇帝の姉であった。今は完璧な、皇太后の義姉であり、皇帝の伯母であった。人生の戦いを始めてからは、完璧な娘であり、完璧な姉であり、完璧な、隣のあこがれのお姉さんであっただろう。
 あらゆる人がアンネローゼに癒しを求め、救いを求め、彼女はそれに応えてきた。美味しいスコーンと紅茶をいつもほがからにラインハルトとキルヒアイスに提供し、春風の癒しを惜しげもなく与えてきた。地位を得るにつれて彼女が保護する人々は増えて、ローエングラム王家の人々のみならず、時代の変化の陥穽に落ちてもがいていた多くの人々を救済してきた。
 彼女を悪く言う人は一人もいない。ラインハルトとヒルダが王朝の力と知性を代表するならば、アンネローゼはそれとは違う、王朝の慈悲を具現化した人であった。
 彼女は王朝の救いを象徴していた。しかし彼女自身は誰によって救われるのか。
 たおやかな微笑みのその先に、拗ねたり気分屋だったりおませだったりする、アンネローゼという小さな女の子がいるならば、その子は誰によって救われるのか。
 ミュラーは半ば決心を固めていた。その選択はこれまで培ってきて人生を捧げてきた軍人としての人生に終止符を打つことであったが、不思議なことに、そうすることへの迷いも未練もなかった。
 ただ、その前に、ミュラーには諒解を得ておかなければならない人がいた。
「久しぶりだな、ナイトハルト。おまえから超光速通信とは珍しい」
 モニターの向こうにいる朗らかな男は、ミュラーの「伯父」であった。正確に言えば、ミュラーの甥であるが、ミュラーよりは30歳も年長であった。この男、ヘルムート・ミュラーが現在のミュラー家当主であり、財閥の総帥であった。親が年老いて生まれた子の宿命で、ミュラーも幼いうちに両親を亡くしたが、長兄が養育を引き継ぎ、長兄が没してからは、その長男であるヘルムートが親代わりになった。ミュラーはヘルムートを伯父さんと呼んでいたが、系図上はミュラーにとっては甥であった。ヘルムートは親身になってミュラーのことを気にかけ、物心両面において実の親にも勝るサポートをしていた。
「ご無沙汰しています、伯父さん。もう4年近く、帰省していませんが、一族のみなさんはお元気でしょうか」
「まあ、ぼちぼちやっているよ。おまえも帝国の顕職にあるのだから、そうそう気軽に帰って来れないのは承知しているが、超光速通信くらいはもっと頻繁にしてくれんものか。私もいつまでも若くはない、たまには声でも聴かせてくれんかね」
 気弱なことを言いつつも、ミュラー財閥は急成長中であり、その総帥としてヘルムートはますます多忙であった。下手したらミュラーよりも忙しいくらいであった。
宇宙艦隊司令長官が率先して前線に出る機会は少ないでしょうから、これからはもう少し伯父さん孝行が出来るかと思いますが」
「それだよ、それ。ミッターマイヤー提督は司令長官のわりには前線に出過ぎだったと聞いている。ミッターマイヤー提督は立派な人物だろうが、そんなところは真似はするなよ。何か戦闘があるたびにこちらはおまえがどうかなりはしないかと生きた心地がせん。せっかく偉いさんになったのだから、ふんぞりかえって、戦功争いは下の者に譲ってやれ」
「それについては遠からず伯父さんのご希望にそえるかも知れません。事が運べば、おそらく退役することになるでしょうから」
 ヘルムートはもともとミュラーが軍人になるのは反対だった。平民では出世の先が見えているし、そもそも危ないからである。瞬く間にミュラーが階級を駆け上がっても、あうたびに退役しろ、退役しろと言ってきた。しかしそれだけに、ちょっとやそっとの理由で、ミュラーが自分から退役するはずがないことも知っている。
 退役するのは結構だが、何か陰謀に絡めとられて、不名誉の退役を「甥」が強いられるのは我慢ならなかった。
「なんだ?なにか難しいことになってるのか。おまえは潔癖症でどうにもいかん、そう言う時は有無も言わさずにカネをばらまけ。こちらはカネは腐るほどあるんだ。なんなら私がそちらに行って、工作してやろうか?」
「伯父さん、そういうことは本当に止めて欲しいと何度言えば。ローエングラム王朝は本当に清廉なんで、そういうビジネスのやり方をやっていたら、いつか財務省辺りに目をつけられるよ」
「おまえなんのために国家のえらいさんをやっているんだ。その時は、おまえがなんとかするんだよ。しかしおまえが自分から退役を言い出すなんて。よほど追い詰められているんだろう。可愛い甥っ子のために一肌脱ぐのは親代わりとしては当たり前じゃないか」
「いやもうその気持ちだけで十分だから。退役するってのは、実は、近々結婚するかも知れないから。その人と結婚すれば退役することになると思う」
「なに?私に会わせもせんで結婚だと?けしからん。すぐに休暇を取って連れて来い!」
「いや、まだ決まった話じゃないから。相手が誰なのかは今は言えない。言えないづくしで、伯父さんも雲をつかむような話で困ると思うけど、俺はその女性と結婚したいと思っている。ただ、もし結婚すれば伯父さんたちにも影響が出ると思う」
「うむ、よく分からん話だが、たとえばどういう影響だ」
「カネをばらまいて、事業を円滑に進めるようなことは絶対にやめて貰わないといけなくなる」
「それは困るが、こちらの事情はさておき、おまえはその人とどうしても結婚したいんだな?」
「ああ」
「愛しているのか?」
「まだ分からない。分からないけど。毎日、彼女のことを考えている。彼女のことをもっと知りたいし、俺のことをもっと知って欲しい」
「ばかもんが、それを愛していると言うんだ。戦争ばかり上手くなって、本当にもの知らずだなおまえは」
「そうなのかな」
「おまえね、私はだてにおまえの倍近く生きてはいないさ。よし分かった。人生の幸福は第一に健康、第二に財産、第三に惚れあった嫁さんだ。好きなようにやるがいい」
「いいのかい?」
「いいともさ。人生の幸福は第一、第二、第三に勝って、子供のしあわせだ。おまえがしあわせならそれでいい」
 しかしいずれ、「ナイトハルトの嫁さん」を報道で知って、ミュラー一族は驚くのであった。