Struggles of the Empire 第2章 十一月の新政府(5)

 ラインハルト・フォン・ローエングラム、この傑出した個人に対する世人の興味はむろん非常に大きなものがあり、生前既に、1000冊を超える評伝が出版されていた。しかし多くは単によく知られているエピソードを集めたものに過ぎず、「伝記と言うよりはパンフレットの類」と評される代物であった。
 テオドール・ソーンダイクによる「ラインハルト・フォン・ローエングラム伝 - その生涯の検証」が類書と大きく異なり、大きな評判を呼び、それ以後の「ラインハルト研究」の土台となり得たのにはいくつか理由がある。
 第一にその量が膨大であったこと。シンショサイズと呼ばれる一般的なビジネス書の分量で計測するならば、おおよそ40冊分に相当し、ラインハルトの短命な生涯を克明に追っていた。
 第二にその資料は基本的に公文書を用いていて、それ以外では、注釈つきで学術資料を用いていた。いわゆる独自研究、独自説の部分もないわけではなかったが、それについては現地の実地調査を踏まえていて、資料の信頼性という点において一点の曇りもなかった。
 第三に、ラインハルトの功罪いずれについても冷静な記述を行っていて、ソーンダイクの姿勢は明らかに帝国の専制政治に批判的であるのだが、専制政治ゆえの長所についても無視するところがなかった。論述が公平であったがゆえにあらゆる党派がこの著作を用いることが出来たのである。
 第四に出版のタイミングである。皇帝ラインハルトの死後数日にして、7月30日に電子書籍の形でパブリッシャーから出版されていて、ラインハルトに関する情報を求めていた人々に、望んでいた以上の優良な著作を与え、またたくまにこの著作は歴史的なベストセラーになった。
 この著作はその後のラインハルト研究の土台を形成し、後続者たちはこの著作が設定した問題意識に賛同するにしろ反論するにしろ、抜け出すことは困難になった。
 この著作がまたたくまに、ベストセラーになるにつれ、著者がどのような人物かについても関心が強まったが、8月6日に、「皇帝ラインハルトとその周辺に関する私見」という、より政治色が強いパンフレットをソーンダイクは出版し、自らの経歴についても明らかにした。
 ソーンダイクは23歳の政治学徒であり、修士課程在学中であった。自由惑星同盟市民として惑星テルヌーゼンに生まれ、早くに両親を失い、叔父ジェームズ・ソーンダイクによって養育された。18歳の時、反戦派として代議員補欠選挙に立候補した叔父を、憂国騎士団のテロによって失い、その後、後見人となったジェシカ・エドワーズの保証によって、ハイネセン自治大学法学部政治学科に入学した。後見者であったジェシカ・エドワーズをも、救国軍事会議によって虐殺された後は、表向きは政治的な発言や活動を控え、いずれ銀河を統一するだろうと目されたラインハルト・フォン・ローエングラムに関する私的な研究を開始した。
 その最初の成果が、「ラインハルト・フォン・ローエングラム伝 - その生涯の検証」だったのである。
 ジェームズ・ソーンダイク、ジェシカ・エドワーズというヤンと交流があった二人の人物の関係者であったことから、人脈的に言えばヤン・ウェンリーに近い人物であったが、「皇帝ラインハルトとその周辺に関する私見」の中では、ヤンがラインハルトを高く評価していたことについて鋭く批判している。
 ソーンダイクは、公文書、つまり確定された事実から論を展開すると言う姿勢を徹底していて、ラインハルト最大の汚点ともいうべき「ヴェスターラントの虐殺を見過ごした件」については、
ブラウンシュヴァイク公による同惑星住民の虐殺を、ローエングラム公は防止できるはずであったと主張する者の論拠としては、艦隊は間に合わなかったとローエングラム公陣営は述べているにもかかわらず、虐殺を当初から記録するための報道機材の派遣は間に合っていることを指摘している。相当に説得力があるロジックではあるが、現時点では推測の域を出ず、ここではそれについては多くを論評しない」
 と述べるにとどめている。
 ソーンダイクが明白にラインハルトの暴力として糾弾したのは、リップシュタット戦役後、リヒテンラーデ公の一族のうち、10歳以上の男子は処刑とした点であり、一族の中でも政治にまったく関わっていなかった者も多く、まして最年少の被処刑者は、10歳と1ヶ月だった少年であり、ソーンダイクはこれについて、「どう穏当に言ったところで、ローエングラムを子供殺しと呼ばないわけにはいかない」と述べている。
 この事実は公表もされ、実行もされていたことだったから、ラインハルトの周辺の者たちや、ラインハルトを高く評価したヤン・ウェンリーが知らないはずはなかった。そのうえで、全体の利益から比較すればささやかな犠牲と、事実上この件を黙殺したことについては、
「言葉の正確な意味において、全体主義的であったと評するよりない」
 とパンフレットの方で、ソーンダイクは述べている。ヤンの下で将兵として戦った者たちは、
「自分は銃も取らずに安全なところで批判だけをしていればいいとは良いご身分だ。最後の最後まで皇帝と戦ったヤン提督を皇帝の迎合者であるかのように言うとは、さぞや立派な抵抗運動をソーンダイクとやらは行ったと見える」
 と反発したが、「自分は政治学者であるので、こうした言論を提示することが自分の戦いである」とのソーンダイクの声明を引き出したに過ぎなかった。
 しかし、ヤンに近い者ほど、ヤンが事実として高くラインハルトを評価し、直接面談した時には、「銀河の向こう側に生まれていればラインハルトの下で必ずや戦っただろう」との意の言葉を発したことを知っていたから、ソーンダイクの批判がまったくの無理筋ではないことは理解していた。
 その時点で、ヤンは、ラインハルトがリヒテンラーデ公一族に対して少年を含めて苛烈な態度をとったことを知っていたのであり、更にいうならば、ヴェスターラントの虐殺を敢えて見過ごしたこと、幼帝エルウィン・ヨーゼフ2世の誘拐を意図的に見過ごしその少年を歴史の中に葬り去ったことをも「分かっていた」のだから、それでいてラインハルトにある種の光を見出していたのだとすれば、そうした犠牲者たちの悲劇を余りにも軽く扱っていたことは否めないのだった。
 これについては自らも歴史著述者となったユリアン・ミンツがヤンを弁護してこう述べている。
ヤン・ウェンリーはその鋭利な頭脳によって多くのことを見通してはいたが、あらゆることを実行する手段を彼は欠いていた。彼の立場はあくまで同盟の軍人であり、保護すべき対象はその国民であった。それ以外の人々に対しても、人類愛を彼が抱いていたことは疑うべくもないが、彼はまず自分の責任を果たさなければならなかったのである」
 それは正当化ではなく弁護であった。ソーンダイクが指摘した点において、ヤンの態度に瑕疵があったことは、ユリアンとしても否定することは出来なかったのである。
 ソーンダイクは8月10日に、「自分の立場は、このような子供殺しにある種のシンパシーを感じていたヤン艦隊の面々とは根本的に相容れないこと」を明らかにし、ヤン一派に対抗すべく、「真の民主主義者を糾合する政党」を起ち上げることを発表した。ヤン一派がバーラト星系において独裁を行うかも知れない可能性を懸念していた人々がこれに呼応し、まだ学生に過ぎないソーンダイクを代表として「バーラト国民会議」なる政党が結成された。
 この政党は、バーラト自治共和政府で選挙が行われるならば、単独与党を目指し、選挙が行われないならばヤン一派の独裁に対して、徹底抗戦を行う旨を今後の基本行動原理として提示した。
 これに対して、バグダッシュからハイネセン情勢の報告を受けたフレデリカは、無用な誤解と不安を解くために、バーラト国民会議の結党に対して祝意のメッセージを送り、ハイネセン到着後、できるだけ早く普通選挙を行うことを明言した。
「イゼルローン共和政府は、ヤン・ウェンリー党を結成することを先日決定し、その党の名の下において、総選挙を戦うことになります。その結果、有権者がいかなる判断を下すとしても、同じ民主主義者として、新国家建設のために共に働けることを期待しています。その日までどうぞご壮健であられんことを願います」
 フレデリカのメッセージはそのように閉められていた。ソーンダイクはヤン一派に対して、どうやら敵対する中核になりそうであった。