Struggles of the Empire 第3章 シュナイダーの旅(7)

今回の話にはグロテスクな描写が含まれています。ご注意ください。 - takeruko

 すえた臭いが煙となって、「町」のあちこちからたなびいていた。水道も無ければ下水道も無いので、汚物を処理するために焚火がたかれ、空襲でもされたかのように、黒焦げの地肌の上から幾条もの煙が天空へと昇っていた。それはまるで、天界から垂らされた蜘蛛の糸のようだったが、それを辿ってこの煉獄から抜け出せる者はひとりもいなかった。
 ここにいる者たちの大半は地方から出てきた食い潰した農民たちだった。
 イゼルローン要塞で自給自足がなされているように、小麦や米、トウモロコシなどの主要穀物は工業的に生産することが可能であり、生産性においても価格競争力においても、従来型の農業では太刀打ちできなかった。旧帝国で、それでもなお従来型の農業が存続できていたのは、帝国政府が規制をかけていたからであり、農民の雇用を守るためにそうしていたのであった。
 ある歴史家は次のように述べている。
「ゴールデンバウム王朝では効率は必ずしもいいことではなく、社会全体が停滞していたが、停滞によって安定していたのも事実であった。言うなればゴールデンバウム王朝は専制政治の形をとった社会主義国家であって、自由の名において規制がすべて取り払われた時、労働集約的な旧帝国の主要産業のほとんどは、旧同盟領の企業に拮抗することが出来なかった。これがローエングラム王朝において地理的な富の極端な偏在が生じた理由である。
 自由惑星同盟も慢性的な戦争状態のため、その末期においては財政赤字が顕著になっていたが、自由惑星同盟の不利は、帝国に対して規模が小さいという一点のみにおいて生じていたのであって、長期的に小康状態が続けば、社会構造において自由主義的な同盟の方が、発展の速度において帝国を凌駕していただろうと見ることはそれほど奇異な考えではない。
 幾人かの歴史構造学者の研究によれば、帝国が持っていた規模の利益と、同盟が持っていた社会構造上の利益、それらの大きさが逆転するのが計算上宇宙暦820年頃であって、その分岐点を過ぎれば銀河帝国に勝ち目はほとんどなく、人類社会を二分したふたつの社会の抗争は同盟の勝利で以て終わったに違いなかった。その直前にラインハルト・フォン・ローエングラムが出現し、その天才によってその関係を逆転させたのは、銀河帝国にとっては最後の好機を最大限に活かしたというしかない。しかし皇帝ラインハルトもまた、結局は自由主義へと社会構造を転換させざるを得なかったのだから、銀河帝国の「没落」は他者によって殺されるか、自ら死を選ぶかの違いでしかなかったとも言える」
 変革期には避けがたい歴史の矛盾であったが、その矛盾の現実がこの「町」にはあった。
 惑星オーディーンは腐っても旧帝都であり、製造業以外にもさまざまな産業があった。規制緩和の影響で、経済成長を遂げてはいたが、膨大な数の流民を吸収できるほどではなかった。
 農民たちのうち、若いもの、先を見通せる限られた者は旧帝国領自体に見切りをつけ、ノイエラントへの移住を開始していたが、そこでも彼らの多くは労働力を買い叩かれ、自己を持たない専制政治の奴隷と差別され蔑まれるのであった。それでも世代を重ねれば彼らは地位を上昇させることも可能だったが、アルターラントからの移住もままならない弱い者たち、女子供や老人たちは、ただひたすら貧窮に喘ぐしかなかった。
 彼らはかつて、皇帝ラインハルトによる身分制打破に歓喜の声を上げた人々であったが、この現実の前に、少なからぬ者たちが旧王朝時代を懐かしむようになったとしても、それは当然の結果であった。フェザーンにいる現政府の首脳たちはこの現実を十分に把握しているとは言えず、遷都に伴って、旧帝国の民衆たちは自分たちが見捨てられたとの思いを強めていた。
 この「町」に足を踏み入れた時、幾つかの家の壁に、幼女の写真が貼られているのにシュナイダーは気づいた。よく見ればそれはカザリン・ケートヘン、ゴールデンバウム王朝最後の女帝であり、現在は3歳になっているはずのペクニッツ公爵夫人の肖像であった。ゴールデンバウム王朝下にあって、彼らのメシアはラインハルト・フォン・ローエングラムであったが、ローエングラム王朝下にあっては、ゴールデンバウム王朝最後の女帝であるのかも知れなかった。
 聞き込みを開始して半日、シュナイダーはこの「町」の外れについにメルカッツ家を発見した。立ち並ぶあばら家の中でましだとは言えなかったが、ドアがあるだけ上出来とも言えた。
 シュナイダーがノックをすると、
「はい?」
 との老婦人の声が聞こえ、その女性はドアを開けた。メルカッツ夫人だった。
 シュナイダーはただちに敬礼の姿勢をとった。
「メルカッツ提督の副官のシュナイダー中佐です。お聞き及びかも知れませんがご夫君は先日のイゼルローン回廊での会戦で名誉の戦死を遂げられました。私は遺産をお預かりしています。それをお届けするために本日はまかり越しました」
「まあ」
 と言ったきり、メルカッツ夫人は目を丸くしてしばらくそのまま固まった。そしておもむろに、
「あら、失礼いたしました。中佐を戸口に立たせたままにしてしまって。わざわざのお越し、お心遣いに感謝いたします。どうぞ、汚いところですが中にお入りになって」
 と言った。
 案内されるままに、中に入ると、家は台所以外にはつづきの寝室はあるだけの簡素な造りだったが、調度は質素ながらも趣味がいいもので、帝国軍上級大将の家族としての格式を貧しいながらも維持しているのが見てとれた。
 良かった、貧窮の中にあってもこの方は節を曲げてはおられない、とシュナイダーは少し安堵した。
「夫は、満足な人生だったのでしょうか」
 薪で湯を沸かしながら、メルカッツ夫人は尋ねた。すすめられるままにテーブルに向き合った椅子に腰かけて、シュナイダーは頷いた。
「同盟での日々は、提督にとっては亡命生活ではありましたが親しい知己も得て、それなりに充実されていたと思います。友のために戦って、ああいう結果にはなりましたが、まずは満足のいくお亡くなり方だったと言えるでしょう」
「それはようございました。それだけが気がかりと言えば気がかりでした。不本意なことも多かったのでしょうが、最後に帳尻があったのならば当人のためにはそれが何よりでございました」
 メルカッツ夫人は紅茶をシュナイダーに差し出した。安い茶葉をブレンドしたものであったが、趣味は良く、このような場所で飲む紅茶としては想定外の美味であった。
「提督はご家族のことを気にかけておられました。大変なご苦労がおありだったとは思いますが、奥方様がこのように品位を保ってお暮しであるのを見れば故人は満足なされるでしょう」
「私などに出来ることはさほどのこともありませんが、メルカッツの名前を汚さないようにとは心がけてまいりました。そのようにおっしゃっていただけて報われた思いがいたします」
「ところで、娘さんがおありだったと伺っていますが、お元気でいらっしゃるのでしょうか」
「クロジンデは今は出ておりますが私と一緒にこちらにいます。帰ったらご挨拶をさせましょう」
「そうですか。では早速というか不躾ですが、提督の遺産をお渡しいたします。こちらの方で現金化させていただいています。銀河帝国正統政府軍務尚書としての退職金と、イゼルローン共和政府からの慰労金です」
 シュナイダーは用意してあった小切手を取り出して、夫人に渡した。書き込まれた額は500万帝国マルクであった。
「これは帝国の管轄外の資産になりますので、相続税などは発生しません。額面通りお納めください」
 夫人は目を丸くして、わなわなと小刻みに震えた後、なんとか落ち着いて一礼すると、それを懐に収めた。
「夫は今の帝国から見れば叛逆者、このようなものをいただける筋合いではないのかも知れませんが、お恥ずかしながらごらんの通りのありさま、これは有難くいただいておきましょう」
 そこまでを言ってしまえば、シュナイダーにはそれ以上長居をする理由も無かったが、なんとなく奇妙な違和感があり、このまま立ち去ってはいけないような気がした。リップシュタット戦役の後、メルカッツがどのように生きたのか、思い出すままにとつとつとメルカッツ夫人に語り、メルカッツ夫人もそれに聞き入っている風であった。
 一時間も過ぎた頃であろうか、ドアが勢いよく開けられ、若い女性が乱暴な足取りで入ってきた。顔立ちは整っていたが、険しい、自分以外すべてを蔑むような表情は、魅力的とは言い難いものであった。
「クロジンデ、お帰りなさい。こちらはシュナイダー中佐、お父様が私たちに残してくれたものをお届けに来てくださったのよ」
 クロジンデは値踏むようにして、母親とシュナイダーを交互に睨んだ。シュナイダーは立ち上がり、敬礼をした。
「メルカッツ提督の副官のシュナイダー中佐です。遅くなりましたが、メルカッツ提督からお預かりしたものをお届けに参りました」
 クロジンデは興味なさそうに鼻で笑うと、
「つまりとうとうあの男はくたばったというわけね」
 と言った。
 その言い草に、シュナイダーはどう反応すべきか当惑した。メルカッツはどのような意味においても実の娘からあの男呼ばわりされていい男ではない。怒るべきであったかも知れなかったが、余りにも常識はずれの言葉の前に、シュナイダーは言葉を失った。
 ヤン・ウェンリーやフレデリカ、ユリアン・ミンツとは思想信条や立場が違っても、人格的な面において容易に理解しあえた。しかしメルカッツの娘クロジンデは自分と同じ陣営に立っているはずなのに、理解可能な部分はかけらもなかった。
「クロジンデ、そんなことを言うもんじゃないわ」
 とメルカッツ夫人は娘を諌めた。
「そう?妻と娘を見捨てて、のうのうと自分だけ逃げた男には相応しい言い方じゃないかしら。シュナイダーさん、あんた遅すぎたのよ。今さらのこのこ表れて、今まで放っておいてごめんなさいとでも言うつもり?あんた、遅すぎたのよ。あの男も、あんたも、もう私には要らないわ。さっさと帰ってちょうだい」
「何を言うの、クロジンデ、お父様は私たちをお見捨てになったわけじゃないわ。ほら、その証拠にこんなにたくさんのお金を遺してくださったのよ」
 そう言ってメルカッツ夫人は貰った小切手を、クロジンデに見せた。クロジンデはそれを受けとって、まじまじと眺めると、おもむろにそれを破いた。メルカッツ夫人が絶叫した。
「ああ!ああ!なんてことを!500万帝国マルクが!」
「いまさらこんなカネで許して貰おうなんてムシがいいにもほどがあるわ。あんたはこの程度のおカネで尻尾を振るのね、メルカッツの奥さん。でもね、あたしはこのくらいのことであたしが受けた仕打ちを水になんて流せないのよ!父親ですって?笑わせるわ。私は恨んでやるわ。恨んで恨んで、恨みぬいて絶対に許さないんだから!」
 狂乱するメルカッツ夫人を制すると、シュナイダーは、
「小切手ですからまた書けばいいんです。ご心配なく。また新しい小切手を振り出しますから」
 と言ってなだめた。そしてクロジンデに対峙して言った。
「ご家庭内のことに口出しすべきではないのかも知れませんが、亡き提督の副官としては余りにも聞き捨てならない暴言、敢えて申し上げさせていただきます。貴女のおっしゃりようは亡き提督の名誉を汚すばかりかご自分をも不当に貶めていらっしゃいます。奥方はこのようなお暮らしぶりの中でも立派に節を守って、提督の名誉を守っていらっしゃる。どうしてそのような方をも辱めるようなことを貴女に言う権利があるのですか。メルカッツ提督の娘としての誇りを、今一度思い出していただきたい」
「誇り?そんなものが飢えに苦しんでいた時に役に立ったことが一度でもあったかしら。あんた、叛逆者の家族として生きることがどういうことか分かってるの?昨日まで友達だった人たちがみんな付き合いを閉ざして、いなくなる、貧乏になって働こうとしても、わざわざ犯罪者の家族と分かっている人間を雇う人なんていないわ。生きるためにはなんでもやったわ。物乞いだってした。その間、そこの節度を守っている奥様がどんな役にたってくださったかしらね。ねえ、この家の調度、貧乏暮らしにしてはちょっとしたものだと思わない?乞食までした女たちがどうしてあんたが飲んだ紅茶なんて買えているのか、ちょっとしたミステリーだと思わない?あたしたちが今どうやって食べているのか、聞いて下さらないの?」
 クロジンデは妖しげにしなを作って、シュナイダーの肩にもたれかかった。シュナイダーは口の中がかさかさに乾いているのを感じて、何も言えなかった。
「ねえ、これはおみやげよ。中を見て下さる?」
 ビニール袋の手さげの部分を開いて、クロジンデは中を見せた。シュナイダーは思わずもよおしそうになって、口を両手で塞いで、床にうずくまった。それは肉塊だった。赤黒い肉塊。しかしひしゃげていながらも、顔のようなものがそこにあるのがはっきりち分かった。それは人間の胎児、正確に言えば胎児であったものの肉塊であった。
「シュナイダーさん。あんたが坐っていた椅子も、あんたが飲んだ紅茶も、この家にあるものはスプーンの一本にいたるまで全部あたしが体を売って稼いだものよ!貴婦人ですって?笑わせるわ。この女はね、娘に体を売らせておきながら自分はのうのうとこんな場所で貴婦人の真似事を出来るような女なのよ!まったく、あの男と言い、この女と言い、似合いの夫婦じゃないの。この子はね、決して消せないあたしとこの女とあの男の罪の証よ。そのままゴミにしてもよかったんだけど、それじゃさすがに可哀想じゃないの。裏に埋めるつもりでもぐりの中絶医のところから持って帰ったのよ。さあさ、シュナイダーさん。純情なあんたを傷つけたくはなかったんだけど、これだけ言えばさすがに分かって下さるわよね。あんたは遅すぎたのよ。もう要らない。あんたもあの男も私にはもう要らない。これからかきいれどきなんだから帰ってもらえる?それともあんたがあたしを買うのかしら。あの男の遺産とやらはいただけないけど、あんたがあたしを買って、支払をはずんでくれるというなら、お相手してもいいわよ」
 シュナイダーはふらふらと立ち上がると、眩暈と吐き気を抑えて、小切手をとりだして、ふるえながら金額をそこに書きつけた。そしてそれを乱暴に台紙からはがして、メルカッツ夫人にそれを渡すと、挨拶もせず、一言も発さずに、駆け足でその家を出た。
 シュナイダーは駆けた。息が切れるまで、息が切れても這うようにして駆けた。広大なスラムがようやくかすむ辺りまで来て、シュナイダーは地べたにうずくまった。
 雨が降り出した。何が混ざっているのか、重油の匂いがかすかにする、黒い雨だった。べたべたとしたその雨に身を打たせながら、シュナイダーは慟哭した。その咆哮は、気が狂った犬の雄叫びのように、重く、低く、いつまでもその周囲に響き渡った。