Struggles of the Empire 第2章 十一月の新政府(1)

 イゼルローン要塞が哨戒宙域に、帝国軍戦艦「王虎(ケーニヒス・ティーゲル)」の艦影を認めたのは、新帝国暦3年8月19日のことだった。このことは一時、イゼルローン共和政府軍首脳部を混乱させた。
「ケーニヒス・ティーゲルだと?ミュラーが来るはずじゃなかったのか?誰だ!ビッテンフェルトなんかをよこしたのは!」
 ケーニヒス・ティーゲルは黒色槍騎兵艦隊の旗艦であり、帝国軍随一の猛将として知られるビッテンフェルト元帥の座乗艦である。黒色槍騎兵艦隊は幾度となくヤン艦隊と対峙し、その度にヤン・ウェンリーの智謀に退けられていたが、同盟軍も無傷ではいられず、ウランフのような将来を嘱望された名将も犠牲になっている。しかしそれを言うならお互い様ということで、ビッテンフェルト個人に対する憎悪はヤン艦隊の面々にはなかったが、猪武者めいた態度のビッテンフェルトと、ことさら政治向きの交渉をしたいと思う者も少なかった。
 しかし通信を求めて、映し出された人物が、ミュラー元帥であったから、一同は、フレデリカ・ヤンを含めて、ほっと胸をなでおろした。
銀河帝国元帥ナイトハルト・ミュラーです。このたび、摂政皇太后陛下のご下命により、イゼルローン要塞の接収にまかり越しました。当艦以外に10隻の護衛艦を同道させましたが、当艦のみが入港しましょうか」
「ご配慮ありがとうございます。けれども、ご同道の方々にも、多少は疲れを癒せる宴席等を設けておりますので、そちらさまさえよろしければどうぞ、ご同道の艦船も入港して下さい」
 そう返答したのはフレデリカであった。フレデリカはミュラーとは二度対面したことがある。一度はバーミリオン星域会戦の後、ヤンが皇帝ラインハルトに面談すべく、ブリュンヒルトに乗り込んだ際、ヤンと副官としてヤンに同道したフレデリカを出迎えたのがこの鉄壁ミュラーであった。また、ヤンが死去した際には、皇帝ラインハルトからの弔問使節としてこのイゼルローン要塞を訪問したのもミュラーであった。いずれも涼やかな印象で、人物としては、ヤン艦隊の面々とミュラーは互いに好感を抱いたと言っていい。その関係から、フェザーンを訪問しているユリアンアッテンボロー提督に対しても行き届いた配慮を示してくれていて、言わば、帝国軍のイゼルローン共和政府に対する友好の姿勢を象徴する人物であった。
「お言葉有難く、では遠慮なくそうさせていただきます」
 埠頭地区に移動して、ミュラーを出迎えたフレデリカは、ミュラーと握手を交わすなり、
「ビッテンフェルト元帥がいらっしゃったのかと思って、冷や冷やしました」
 とにこやかに軽口を叩いた。
「いやあ、とにかく接収を急ぐと言う方針だったものですから、足が速い艦船ばかりを選びました。ケーニヒス・ティーゲルは特に足が速いものですから、ビッテンフェルト元帥にお願いして特別にお借りしたのです」
 機動的な艦隊運営に優れているという定評があるのは何と言っても疾風ウォルフ、ミッターマイヤー元帥であるが、その機動性は艦隊運用の妙によるところが大きく、艦船の機能そのものでは、ミッターマイヤー元帥の旗艦「人狼(ベイオウルフ)」は突出して足が速いわけではない。艦船の速さで言えば、何と言ってもケーニヒス・ティーゲルは抜きん出ていた。
「実はケーニヒス・ティーゲル単艦で赴こうかと当初は思っていたのですが、ミッターマイヤー元帥から叱られまして」
 ケーニヒス・ティーゲルが単艦で行動すればそれは速いことは速いだろうが、航行の途中で何があるか分からない。ウルヴァシー事件の後、ブリュンヒルトが単艦で隠密行動を余儀なくされたことを忘れたか、とミッターマイヤーは難詰した。
「卿は宇宙艦隊司令長官なのだから卿の身の安全はただ卿だけの問題ではない。軽挙は慎むように」
 ミッターマイヤーにそう言われて、ミュラーは自分が軽率だったことに気づき、反省した。それで足の速い艦船を護衛に付けたのだが、やはりそれで日数にすれば数日は旅程が長くなる。
「まあ、そうまでして私にお会いなさりたかったとは光栄ですわ」
 フレデリカは政治家としてその程度の冗談を社交として言うようにはなっている。ミュラーはたじろいで、一気に耳まで赤くなった。帝国軍随一の美丈夫でありながら、女慣れしていないこと甚だしかった。
「もちろん、ヤン夫人にこうして再会できるのも、役得ではありますが」
 真っ直ぐにそう答えるミュラーを、フレデリカは微笑ましく感じた。
 既に接収に応じる準備はキャゼルヌの奮闘により終えていた。ミュラー艦隊の入港と期を一にして、民間人や軍属の、宇宙船への乗船が始まっている。
「明後日はこちらも撤収できる用意が整っています。もちろんお望みであれば引継ぎ用のスタッフを幾人か残していきますが」
「そうですね、こちらでは分かりかねることもあるかも知れませんので、お言葉に甘えたいと思います」
「とりあえずは、午後の紅茶でも、といいたいところですが、まずはやるべきことを先にやってしまいましょうか」
 ヤン・ウェンリーの遺体が設置されている大ホールに調印式の式場が設けられていて、改めて、帝国とイゼルローン共和政府との間で、講和条約が締結された。過日、フェザーンで摂政皇太后ヒルダと特命全権大使ユリアン・ミンツが署名したことによって講和条約はすでに有効ではあったが、イゼルローン共和政府の最高責任者であるフレデリカと、やはり帝国から特命全権大使印綬を帯びているミュラーによって署名されることによって、条約は確実なものとして承認された。
「長かったですね」
 ミュラーが呟き、フレデリカは頷いた。ヤン・ウェンリーが望んだ平和。このささやかな果実がもたらされるまで、帝国とヤン艦隊は幾度戦火を交えなければならなかったのだろう。目の前にいるミュラーにしても、イゼルローン攻略戦に大敗し、必ずやと復讐戦を誓ったこともあった。いまはすべての恩讐を流すべき時である。
 ミュラーにしてもフレデリカにしても指を折って数えてゆけば、両の手では足りない程の懐かしい人々を戦火において失ったが、その恨みを互いの目の前にいる青年と女性にぶつけても、憎しみを養うだけであり、未来のために何の益にもならないことを両者は知っていた。
ヤン・ウェンリーも、喜んでいるでしょう」
「ヤン夫人。私はむろん用兵家としてのヤン提督を尊敬しています。ヤン提督こそは、人類史上、たったふたりだけの軍事的天才のうちのひとりでした。しかし、おそらくイゼルローン共和政府のみなさんはヤン提督が不敗だったから、ヤン提督に従ったのではないと思います。今は私にもそれは分かります。私もきっと、自由惑星同盟に生まれていれば」
 何を置いてもヤンの旗下に参じたであろう。
「私たちはお互いに、失ってはならない人を失いました」
 皇帝ラインハルトを失ったミュラーに、その言葉は突き刺さった。
「けれども私たちはこうして生きています。生きていればこそ、未来をつむいでいけるというものです。よりよいものを、これからの若い人たちに残してゆけると良いですね」
「そうですね」
 ミュラーもまた、強く頷いた。

「さて、ミュラー元帥。おまえさん、宇宙艦隊司令長官なんぞになったとか。ささやかだが、家内がおまえさんの昇進祝いをしたいとかで、晩飯に誘うよう俺に命令した。この際だから年代物のワインも開けるし、と言ってもこれはもともと帝国軍が残していったものを接収したものだが、まあそれくらいはかまわんだろう。うちの家内の誘いを断ったら、後が怖いよ?」
 紅茶を飲みながら、フレデリカと歓談していたミュラーを、さらうようにしてキャゼルヌがミュラーをキャゼルヌ家に連れて行った。もちろん、フレデリカも招待されている。
「さあさ、たんと召し上がってくださいね。お若い方が遠慮なんかなさっては嫌ですよ」
 実際、キャゼルヌ夫人の料理の腕は超一流であった。その腕を振るうのはキャゼルヌ家の食卓だけであったため、世間的に名をなしてはいなかったが、彼女が料理家として家庭料理を極めたのみならず、独創的なレシピを次々と考案し、それは美食家たちの満足を満たすに十分であったのは事実であった。
「これは、ちょっと、本当に美味しいです」
 ミュラーは驚きながら、並べられた料理を次々と平らげていった。
 ヤン提督の弔問に来てくれた人、ということで、キャゼルヌ夫人はミュラーに絶大な好感を抱いていたから、特に腕によりをかけて歓待したのである。
 飲み、食べ、談笑し、笑い、キャゼルヌ夫妻とミュラーとフレデリカは濃密な時間を過ごした。後でミュラーは、あのひとときはこれまでの人生の中でも素晴らしく満ち足りたひと時であったと思うのだった。
 かつての敵は、それが定められていたかのように、今日からの友となった。