Struggles of the Empire 第5章 ロキの円舞曲(3)

 ゾンネンフェルス中将はオーディーンの郊外、ホーフブルクの町に居住していた。提督の邸宅にしては、こじんまりとした作りで、独居しているその居住者が、かつてのノイエラント総督の第一の腹心であったとは見ただけでは誰も思いもよらなかったであろう。その家に案内されたシュナイダーは、扉を開けて出迎えたのがクロジンデであったことに、驚かされた。
「クロジンデ、どうして君がここに」
「シュナイダーさん、先日はいろいろと失礼なことを申し上げてすいませんでした。母のことについては感謝しています」
 しかしそれだけを言って、クロジンデは黙ってしまった。彼女を勇気づけるようにして、ブラウン大尉は、クロジンデの背中を軽く叩いた。
「シュナイダー中佐。提督に会っていただく前に、クロジンデと話してお互いのわだかまりを解いた方がよろしいでしょう。ああでも言わなければいらしてはいただけなかったとは言え、脅迫めいたことを申しましたこと、改めてお詫びいたします。提督と私は書斎の方でお待ちしています。クロジンデとはそちらの応接室でお話ししてください。そちらのお話が終わり次第、書斎にいらしてください」
 ブラウン大尉はクロジンデを促して、シュナイダーを応接室に案内させた。
 対面してソファに腰かけた両者は、数秒、どちらから話を切り出したものか、迷っていた。まず、シュナイダーがメルカッツ夫人が今後安心して暮らせるよう措置したことをクロジンデに説明した。
「あなたもどうか、お母上とともに、平穏に暮らして欲しいというのが私の、そして亡きメルカッツ提督のお望みです。メルカッツ提督はあなたのことを決して忘れたり見捨てたりしたわけではありません。同盟に亡命したのも、私が強く勧めたせいですし、あなた方のことはお亡くなりになる前にも気にかけていらっしゃいました。ただ、まさかああまで窮乏なさっておられたとは想像もしていなかっただけのことでしょう。それを迂闊と言い、責めるならばどうぞ私を責めてください。しかしだからと言って、あなたが今後とも、困窮しなければならない理由はないはずです。メルカッツ夫人にお渡ししたお金の半分はあなたのものです。これからは好きに生きることができるのですよ」
「シュナイダーさん、まず先日のことをお詫びいたします。あなたにあたるべきではありませんでした。言い訳をさせていただくならば、あの日は、私にとっても自分の子供を殺した、人生で最も呪わしい日でした。平常ではいられなかったことはご理解いただけるかと思います。おっしゃる通り、これまでの呪わしい数年に蹴りをつけて、これからは何もなかったかのように、ただ何も知らなかったメルカッツ家の令嬢として以前のように生きてゆくことも出来るでしょう。けれどもそれはもう無理です。
 あなたのご訪問がせめてあと一日早ければ、そのように生きてゆくことも出来たかもしれません。私は胎児とはいえわが子を殺した女です。せめてあなたの訪れがあと一日早ければあの子を殺さずに済んだかもしれない。それはあなたのせいではありませんが、あなたがああしていらしてしまった以上、そう考えずにはいられないのです。私はああいう稼業をしていましたが、避妊には気をつけていました。ただ一度だけ、薬を切らしてしまった時に、上得意の方のお相手をしなければならないことがあって、それで授かってしまった子でした。誰からも望まれていない妊娠でしたが、それでもわずかに母としての喜びのようなものはありました。けれども、どうしてあのような環境で、子を産めるでしょうか。あの時はああするしかなかったのです。
 私はもう人並みの幸福を望んではいけないのだと思います。それがせめてもの罪滅ぼし、私が殺してしまったあの子への母としてのわずかな矜持です。
 母のことについては感謝しています。母は私にとっては唯一の気がかりであり、重荷でした。今はもう、あの人とは二度と会わないつもりです。できれば、今後とも母のことは気にかけていただければ感謝いたします」
「それはむろん、そうするつもりですが、あなたに対しても私は責任があります。あなたに対する説得をあきらめるつもりはありませんが、それはともかく、あなたはなぜこちらにいらっしゃるのでしょうか」
「こちらの提督が私を探してくださり、家政婦として雇用してくださったのです。私一人が生きてゆくにはそれで充分ですから、どうぞご心配なく」
「そういうわけにはまいりません。こちらの方がどのような方がご存知なのでしょうか。彼らは私をここへ呼びつけるためにあなたを利用したのですよ」
「いずれお聞きになることでしょうから私からお話しいたします。ゾンネンフェルス中将は帝国同胞団という互助組織を結成して、スラムでの福祉活動を行っていらっしゃいます。以前からその活動は私も知っていて、ささやかながらお手伝いしたことがあります」
「彼らはゴールデンバウム王朝の復権を目指しているのですよ。しかしその目的はごく利己的なものだと私は見ています。もし、その理想が純粋なものであるならば、どうして今まで彼らはメルカッツ提督、王朝のために最後まで戦った人の娘であるあなたに手を差し伸べなかったのでしょうか。以前からあなたを見知っていたならばあなたが最も苦しいときに、この職を与えて、助けなかったのでしょうか。彼らはあなたを私をここに呼ぶための駒として利用しているだけです。母上と一緒にいたくないというならばそれでもよろしいでしょう。ではどうか私と一緒にここを出てください」
「シュナイダーさん、彼らが私の出自を知ったのはつい先日のことなのです。あなたがスラムで派手に私の消息をお聞きになったものですから、私の出自は知られてしまいました。それまでは私は自分の出自を隠していました。メルカッツという姓はオーディーンでは珍しいものではありませんから、わざわざ言わなければメルカッツ提督の娘とは、誰も思わなかったでしょうから。就職の面接では言わないわけにはいかず、それでずいぶん苦労しましたが、そういうことでもなければわざわざ言う必要もないことですから。
 それにゾンネンフェルス中将は以前からこの仕事にお誘いくださってはいたのです。私が従事していたあの仕事では、聞くとはなしにいろいろと情報が集まります。それで帝国同胞団のお役にたてることもありましたので、私が断っていただけです。母を抱えていましたし、母のことまでご迷惑をおかけするわけにはいかなかったということもあります。あの暮らし、あの状況の中で、同胞団の一員として生きることは唯一の救いでした」
「では、あなたご自身、ゴールデンバウム王朝の復権を支持なさっておられるのでしょうか」
「私は父とは違いますから、ゴールデンバウム王朝には何の世話にもなっていません。正直、それはどうでもいいことですが、私も多少は苦労をして学ぶことはありました。辛い時期でしたが、今から振り返れば、あの時期がなければよかったとは思いません。何も知らなかった上級大将令嬢に戻るくらいなら、今の方がずっといいです。スラムの状況はごらんになったでしょう?シュナイダーさん。あれが結局、ローエングラム王朝が帝国にもたらしたものです。私は難しい政治思想のことは分かりませんが、社会の底辺で生きてきた私には、どう見ても、今の王朝がゴールデンバウム王朝の頃よりもましとは思えません。ゴールデンバウム王朝のことはともかく、今の王朝は倒されなければなりません。私一人が底辺から抜け出すことは、シュナイダーさんのおかげで可能にはなりましたが、今はもうそれだけでは私は満足できないのです。ひとりひとりの人間が、自分をおとしめなくても生きてゆけるだけの社会を作らなければ、私が生きたあの苦痛の時期は、ただ私個人の不幸な話になってしまいます。ああいう時期があってかえってよかったのだと、私の死んだ子供もそのために死んだのだと思えるのでなければ、私はもうこれから先、人間として生きてはゆけないのです」
 クロジンデは立ち上がって礼をした。
「どうぞ私を助けてくださるおつもりならば、ゾンネンフェルス提督をお助けください。帝国同胞団をお助けください。スラムの民となるしかない人々をお助けください」
 クロジンデの印象は先日会った時とはまったく違っていた。自分が言うとおり、あの時は平常ではいられなかったのだろう。クロジンデにとって人生で最も平常心を保てない日に、シュナイダーが出会ってしまったのはお互いにとって不幸であったが、結果として腹の底の底まで晒しあうことになり、こうして再び会った時には、両者とも互いに離れがたい絆のようなものを感じていた。
 しかしだからと言って、シュナイダーはここで直ぐに了というわけにはいかなかった。メルカッツの遺族の面倒を見るのも、メルカッツから託されたことであったが、エルウィン・ヨーゼフ2世を探索する責務もあったからである。
 シュナイダー自身、ノイエラント、フェザーンと旅してきて、それらとはまったく違った状況のアルターラントの荒廃ぶりに驚く思いがあり、どうしてローエングラム王朝が結果としてこれを放置しているのか、疑問と憤りを感じていたが、それに関与すれば旅人としての自分の役目は果たせなくなる。更に言うならば、経緯はどうであれ、シュナイダーはヤン陣営の一員と現王朝には認識されているはずであり、自分がローエングラム王朝に敵対行動をとれば、ユリアンやフレデリカにも多大な迷惑をかけることになる。
「今ここでどうこう返答することはできません。私にも守るべき人がいて、やらなければならないこともあります。しかしともかく、ロイエンタール元帥の幕僚閣下には会ってみましょう。それからのことはそれからの話です」
 シュナイダーは、ロイエンタールとは直接会ったことはないが、誇り高く高い節度を維持していたと聞いている。はからずも叛逆者として死んだが、その威名はなおも確固たるものがあった。死後剥奪された元帥位についても改めて授与されており、それはロイエンタールが持つ威信を帝国政府も無視できないからであった。その幕僚であった人物ならば、少なくとも卑劣な振る舞いはするまい。クロジンデをここに残したとしても、彼女に危害を加える恐れはないはずであった。