Struggles of the Empire 第3章 シュナイダーの旅(2)

「陛下は帝国財政を破綻させるおつもりか!」
 閣議で、ヒルダがアルターラントの旧農民の疲弊した生活を指摘し、当座しのぎとしてフードスタンプなどの直接支援が必要だと提議するなり、オイゲン・リヒターは激昂した。
「リヒター、そう頭ごなしに否定するではない。第一に陛下に対して無礼であろう。第二に民衆の福祉の向上はそもそも卿の宿願ではないか。幸い財政の余裕もあるようだし、陛下のおっしゃることはしごくもっともではないか」
 リヒターの友人でもあるカール・ブラッケ民政尚書が、とりなそうとしたが、リヒターは一歩も引かなかった。
「財政に余裕があるだと?とんでもない。財政支出は加速度的に上昇していて、一方、帝国政府は減税の上、福祉を拡充させると言う無理難題を敢えて推し進めることで、民衆の忠義を買っている。これは比喩ではないぞ。帝国によって征服されたばかりのフェザーンやノイエラントの民衆が大人しくしてくれているとすれば、それは文字通り彼らの忠義を我々が買っているからだ。平和のためには、この支出は削れん」
「しかし幸い全体として経済は順調に伸びている。税収の増大も期待できよう」
 ラインハルトが最後の親征に赴く直前に新設された産業省を統括する産業尚書のライヘナウが言った。
「ライヘナウ。私はたった今、帝国は減税を行っていると言ったばかりだが。経済規模が拡大してもそれを上回って減税を行えば、税収は増えん。帝国の財政構造は明らかに小さな政府を志向しているのに、民政省や産業省、工部省は大きなことばかりやって、財政のことなど欠片も気にしておらん。まったくもってけしからん」
「リヒター。そもそも新王朝の理念から言えば、民生の向上に尽くすのは当たり前ではないか。卿とても、窮乏する農民を放置しておいていいとは思っておらんだろうに」
「ブラッケ。財政が破綻すると言うことは政府が破綻すると言うことであり、そうなれば未曽有の混乱と悲劇が人類を覆うだろう。このままゆけば、数年以内で赤字国債を発行せねばならなくなり、その規模はひたすら拡大してゆくであろう。皇太后陛下に申し上げる。確かに帝国財政はリップシュタット戦役の後、一時的に改善されましたが、いつまでもそれに頼っていていい状況ではありません。貧窮する農民を救済なされるのはよろしいでしょう。では、都市の貧困層はどうするのか。農民のみを優遇するならば、不平等の極み、遺恨の種をばらまくことになりかねませんぞ」
「もちろん、都市の貧困層にも相応の手当ては必要でしょう。それはそれで別途に行うとして、辺境星系の人々を流民化させないためにも、治安問題としても農民対策は必要です」
「もちろん、おっしゃることはごもっともです。しかしごもっともだからと言って、やれることとやれないことがあるのはお分かりでしょうな。せめて財政的な裏付けをはっきりとさせていただきたいものです」
 このところ、リヒターは財政の鬼と化していた。創建の時代なれば、誰もがあれもこれもと多くを望み、リヒターのようににらみがきく者が財政番を務めなければ帝国財政はひたすら流動化してしまう懸念が強まっていたからである。政府部門すべてが何をやるにしても財政出動は必要になるわけで、リヒターはすべての尚書たちに噛みついていた。ゴールデンバウム王朝下の最も暗い時代の頃から、彼が節を通して民衆のために尽くし戦ってきた事実が無ければ、けんもほろろにはねつけられる者たちはリヒターを民衆無視のごうつくばりと非難したかも知れない。いや、社会改革の闘士としての実績があってなお、リヒターをシャイロック呼ばわりする者は各省庁の高官たちの中にもいた。
 財政均衡への徹底した信念ゆえの攻撃は、今まさにそうであるように、皇太后に対してさえ向けられたのである。
「財務尚書はやや視点が偏り過ぎているように見える。農民を救済すると言えばただひたすら国庫を食いつぶすかのようにしか見ておられない。彼らが自立をすれば人材になり、いずれは国富を増大させることを踏まえればこれはむしろ投資と見るべきではないのか」
 先ほど噛みつかれたライヘナウ産業尚書が滔々と述べた。
「あてにもならん投資話をするとは、産業尚書は老婆の資産を狙ってフィナンシャルプランナーにでもなった方がいいのではないか。夢見話に付き合う気はない」
「卿の言はいささか無礼ではあろうが、いつものことだ、ここで腹を立ててもしょうがない。ところで卿はひょっとしたらご存知ないかもしれないが、財務尚書職は内閣の首班でもなければ独裁者でもない。閣議は多数決を以て決せられる。これ以上の徒労に付き合う気はないのは私も同じだ。国務尚書、決を採って決着をつけるべきだろう」
 腕組みをしたまま考え込んでいたマリーンドルフ国務尚書に閣僚たちの視線が集まった。このまま決を採れば、リヒターは確実に負けるだろう。仮に閣議でリヒターの反対案が通ったとしても、皇太后は独断でそれを実行するかも知れない。このところ強まっている財務尚書への反発を思えば、内閣の首座としてはここで路線対立が明白になることは避けたいところであった。
「どうでしょう。皇太后陛下の提議された政策案はむろん有意義なものとは思いますが、財務尚書がおっしゃるのも一理があるように私には思えます。いずれにせよ、現状でははっきりしないことが多いので、決を下すのは尚早だと考えます。費用対効果の見積もりを、産業省と財務省で検討したうえで、後日それを踏まえて閣議で再討議したいと思いますがいかがでしょうか」
 皇太后とほとんどの閣僚たちは頷いた。しかしリヒターはそれでは納得しなかった。
「このままゆけば、おそらくその政策は実施されるのだろうが、並行して更なる行政改革を進めることを諸兄らに求めたい。この1年間で財務省は経費を1割削減したが、他省庁はすべて経費が増加している。なかんずく軍は、2割近く支出が増えている。軍は一体どう対処するつもりなのかこの際、軍務尚書にお考えを伺いたい」
 突然、矛先を向けられてメックリンガーが内心、驚いたが、そのそぶりは見せずに滔々と返答した。
「その支出は幾つかの大規模な軍事作戦に伴うものであり、たまたまそうした時期の数字を抽出する意図にははなはだ遺憾であります。また、そうした純軍令的な支出を除けば、増加している支出は死傷者や退役者への補償や慰労金であって、決して軍が財政的に弛緩しているわけではありません。ご存知の通り、軍が管轄する地理的な規模は約2倍になっているのに対して、艦船や戦闘要員の規模自体はむしろ縮小しています。実際には軍ほど行政改革において成果を挙げている政府部門は他にはないのは明白でしょう」
「甘い。既に大きな外敵は無く、帝国の治安は軍によってではなく、財政負担を民衆に求めないことによって維持されている。これからも軍に存在意義が無いとまでは言わないが、そのプレゼンスを縮小させる必要があるのは言うまでもない。現状ではまだまだ不十分である。この程度のことで満足して貰っては困る」
「お言葉ですが、それはいささかご無体なおっしゃりようではありませんか。今日の平和は自らの血肉を流して戦った者によって築かれたものであり、今後の平和維持もまた同じことでありましょう。財政家によって新王朝樹立がなされたのではないことを指摘しなければならないのでしょうか。平時において乱を忘れれば、この平和もまた一時の夢で終わりましょう。帝国の礎は軍であり、軍を軽視すれば土台が揺らぐことをお忘れなく」
「別に軍の功績を否定しているのではない。しかし過去に功績があったからと言って、不可触の領域を作るならばそれは世襲貴族たちの支配となんら変わらないではないか。ともあれ、尚書諸兄に、特に軍務尚書には言っておく。行政改革において目に見えた成果を挙げないようならば、閣議の決定がどうであれ、私は農民に対する財政支援には断固と反対するばかりか、今後の大規模な財政支出には徹底して反対するつもりである。むろんそれが不服ならば、皇太后陛下には人事権がおありになる。しかし在野の人間となっても、私は政府批判の手綱を緩めるつもりはない」
 ローエングラム王朝の功臣といえば軍においてはミッターマイヤー、オーベルシュタインであり、文官においてはリヒター、ブラッケ、シルヴァーベルヒであった。リヒターはただの財務尚書ではなく、帝国の元勲のひとりであり、彼が多数派とたもとをわかてば帝国政府の分裂は白日のもとに晒される。
 そのおのれの立場の重さを十分にわきまえたうえでの、リヒターが突き付けた匕首であった。