Struggles of the Empire 第2章 十一月の新政府(9)

 ヤン・ウェンリーは生来の流浪人であり、父が交易商人であったため船以外には定まった住居を持たず、軍人となってからは任地の官舎を転々とした。その生涯において最も長く住んだ家が、ユリアン・ミンツを引き取って以後、3年間、居住したハイネセンの官舎であり、その次がイゼルローン要塞の自室であった。
 かつて軍人官舎があった地区には大型集合住宅が建てられ、帝国軍の軍人や役人が居住していた。懐かしさにかられて、その地区に寄り道したユリアンは、むかしの面影がまったく残っていないことに、落胆したが、すぐにこれでよかったのだと思った。
 ユリアンにとっては宝石のような思い出であるハイネセンでヤンと暮らした日々の面影が、残っていれば残っていたで、ヤンの不在が一層辛くなったはずだから。
 アッテンボローはすでにヤン・ウェンリー党の幹部としてハイネセンで活動を開始しており、仮の党本部を手配したり、党に引き入れたい人たち、ホアン・ルイやムライに会っていた。今日はシトレ元帥に会うということで、ユリアンとカリンにも付いてきたらどうだ、とアッテンボローは言ったが、ユリアンは首を振った。
「シトレ元帥はヤン提督とはご面識がおありでしたが、僕はお会いしたことがありません。今後、政治や軍から離れる人間が、お会いしても仕方がないでしょう」
「なあ、ユリアン。俺はおまえさんの選択を尊重したいが、考え直す余地はないのか。正直言って、ポプランが去り、おまえさんも行ってしまうと、やりきれん」
「もう会えなくなるわけじゃありませんよ。おりおりにハイネセンには来ることもあるでしょうし。ただ、今は、どうしてもやりたいことがあるんです。分かってください」
「おまえさんのことだから、生半可な気持ちで言っているんじゃないのは分かる。しかしだな、おまえさんがイゼルローン共和政府軍の司令官であり、この平和を築いた第一論功者だと言うことは変えられんぞ。いくら政治から距離を置きたくても、周囲が放っておかないこともある」
 ヤン・ウェンリーほどではなかったが、ユリアンもまた、皇帝ラインハルトの脇腹にくらいついてこの平和を勝ち取った英雄として、銀河に広く知られる存在であった。なまじ面がいいものだから、アイドル的な人気まであり、ユリアンは外出する時はいつもサングラスをかけて、帽子を深々とかぶらなければ通りも歩けない状態だった。
 そのような青年が若くして「引退」することを、果たして世間が許すであろうか。ユリアンの名声を利用しようとする者はいくら追い払っても湧き出てくるだろうし、状況次第では、危害を加えようとする者がいないとは限らなかった。
「おまえさんは普通の人間、10人分くらいの仕事をもうやってしまったんだ。身を引きたいという気持ちは分からんでもないが、象牙の塔にこもったところで、市井の人間に戻れるわけではないんだぞ」
 例えば、ユリアンの作戦指揮によって殺害された帝国軍兵士はおそらく数十万を下らないだろう。その家族がユリアンに対してまったく遺恨を持たないでいられるのか。ユリアンは英雄であったが、それは同時に大量殺戮者であったということを意味し、その過去は決して変えられない。公人であれば保護のしようもあるが、私人になって、ましてヤン・ウェンリー党の勢力が及ばないフェザーンに行ってしまって、ユリアンは自らの生命を守れるのか。
 もちろん、皇太后ユリアンに危害が加えられることがないよう、細々と配慮をするだろうし、アッテンボローフェザーン滞在中にケスラーに面会した際、ケスラーにユリアンとカリンの保護を依頼し、その応諾を得ていた。ケスラーはこれ以上はないというほど有能な男であるが、それでも、柊館襲撃事件や、ヴェルテーゼ仮皇宮を地球教徒が襲った事件が発生しているし、皇帝ラインハルトも数度に及んで暗殺未遂に晒されているのである。
 むろん、それで言うなら、ヤン・ウェンリーを守りきれなかったアッテンボローであるが、帝都フェザーンよりはハイネセンの方がユリアンが生きる場所としてはまだしも安全に思えるのだった。
 これ以上言っても互いに繰り言になるのが分かっていたので、ユリアンは笑顔で話を打ち切って、カリンを伴って通りに出て、ハイネセンの街を散策していたのであった。
 今日はフレモント街にある旧ヤン邸の状況を確認する予定であった。ヤン艦隊の面々の私有財産は接収されていたが、講和成立によって、接収されていたものはめいめいに返還されることになっていた。ヤンの遺産は、当人が生前手配していた遺言にのっとって、フレデリカとユリアンが半々を相続することになっていた。ユリアンは、養って貰っただけでも十分以上のことをしてもらったと、相続辞退をしようとしたが、あらかじめフレデリカが、「こればかりは夫の遺志を厳守して貰います。これはヤン家の家長としての命令です」とユリアンに厳命したので、受けないわけにはいかなかった。
 ヤン・ウェンリー自由惑星同盟の歴史を紐解いても他に類例がないほど、急速に階級を上昇させ、最終的には元帥に昇ったが、同盟末期の会戦における勝利のほとんどがひとりヤン・ウェンリーによるものであったことを踏まえると、功績の大きさから比較すれば昇進速度はむしろ停滞していたとも言えた。全体のバランスを踏まえれば、そうそうヤンを昇進させるわけにはいかなかった同盟軍は、階級を上げる代わりに報奨金を出して、その埋め合わせとしていた。
 そういうわけで、ヤン・ウェンリーの個人資産は、当人がまったく把握していなかったにも関わらず、その年齢の公務員としては、巨額なものであった。ここまでは、ヤン・ウェンリーの資産管理を行っていたのが他ならぬユリアンであったので、それぞれ半々の額を相続すれば、フレデリカもユリアンも生活に困らないのは分かっていた。
 しかし、今回、ヤンの遺産を整理してみて、その規模がユリアンが把握していたものよりも数倍以上であったことに、ユリアンは驚いた。金銭における如才のなさは、ヤン・ウェンリーに最も欠落していた資質であったから、これがヤンの何らかの企ての結果ではないことはすぐに分かった。
 詳細に通帳の出入りを検討してすぐに分かったのは、ヤンがいろいろな人から遺産を相続していたということであった。ヤン・ウェンリーは同盟の希望の星であり、民主主義の最後の輝きであった。可能であればヤンと共に立って戦いたいが、老齢のためにそれが叶わないという人々が多数いて、彼らは自らの遺産のうちの幾らかを、ヤンに遺贈していたのである。せめてそれが、民主主義の未来につながることを願って。
 そうした遺贈も講和前は当然、凍結されていたが、講和成立によって正式に、相続税を差し引いてヤンの資産となった。それがフレデリカとユリアンに委ねられることになったのである。
 自分が選ぶ道もまた、ヤンの理想を実現するために必要なことだとは分かってはいても、軍や政治から離れる自分がヤンに付託された人々の想いを相続する資格が果たしてあるのだろうかとユリアンは、重い気持ちになった。

 フレモント街はアッパーミドルクラスの街であり、高級住宅街とまでは言えなかったが、まあまあ整った地区であった。ヤンが生涯初めて、そして唯一購入した不動産である邸宅には結局、半年弱しか居住することが出来なかったが、当人としては終の棲家として選んだものだった。ユリアンの部屋も用意してあったと言うが、ユリアンはヤンがその家に住んでいた時期には地球を訪れていて、そのままエル・ファシルへ向かってヤンに合流したから、その家には足を踏み入れたことはなかった。
 フレデリカが言うには、ハイネセンを脱出する際に、炎上したはずだということだったが、行ってみれば確かにすでに更地にされていて、家屋は存在していなかった。
 ただし土地はなお、ヤン家のものであるはずだから、フレデリカはここに、ヤンと暮らした家を寸分たがわず再現して、自分の家とするつもりであった。家そのものは建売住宅であったので、業者に図面が残っているはずであり、業者に施工を依頼して欲しいとフレデリカはユリアンに頼んでいた。
 フレデリカがハイネセンに戻れば、日を置かずして首相なり、最高評議会議長なりになるはずであって、ここに家を建てたとしても当人が住めるようになるのは遠い先のことだろうが、ここに家があるということが自分にとっては大事なのだ、とフレデリカは言った。
 近隣の家を回って、ユリアンは業者を紹介して欲しいと頼んだ。隣のカールソン夫妻は、ヤン夫妻とも親しく交際していて、ユリアンが戸口に立っているのを見ると、実の孫が訪れたかのように歓待してくれた。
「ヤン提督はあんたが早く帰ってこないかなとよう言うておりましたわ。ヤン提督の子ならわしらにとっても孫同然じゃわい。ホテルなんぞ引き払って、どうぞうちに来なさい」
 ユリアンとカリンの返答も聞かずに、カールソン氏が部屋の準備に駆け回る中、カールソン夫人は紅茶を用意して、
「ヤン提督が気に入ってくださったブレンドですのよ。宇宙で二番目に美味しい紅茶だとおっしゃってくださいました。一番はあなたが淹れた紅茶だそうよ」
 と言った。ふいの言葉に、ユリアンは思わずめがしらが熱くなった。
「フレデリカさんとまたお会いできるなんて、こんなに嬉しいことはないわ」
 ユリアンは知らなかったが、ここには確かにヤン夫妻の生活があったのだ。フレデリカがここに戻ることに固執するのは、何も亡夫の思い出があるからばかりではないだろう。ヤンもフレデリカも流転の多い人生であったが、故郷と呼ぶべき場所をここに確かに持っていたのである。
 ユリアンは好意を謝したうえで、自分が置かれた状況をきちんと説明し、イゼルローン共和政府の軍司令官であるため、むやみに滞在してはかえって迷惑をかけてしまうかも知れないことを言った。
「そんなことは構わん。ヤン提督の子をのこのこ帰したとあっては提督に面目が立たんわ」
 とカールソン氏はなおも言ったが、ユリアンは謝絶した。ただ、ハイネセン滞在中、夕食を食べに訪れることは約束し、それは結局、ほとんど毎日になったのである。カリンはカールソン夫人から手作り料理を伝授されて、ミンツ家の食卓はそれで彩りが整うはずであった。自分たちの結婚式にぜひ出席してください、とカリンはお願いし、カールソン夫妻は快諾した。
 カールソン夫妻は業者を紹介してくれたばかりか、ヤン家を何度も訪問した際の写真を提供してくれることになった。それを参考にすれば、ヤン邸はヤン・ウェンリーが生活した頃のままに再現されるだろう。