Struggles of the Empire 第5章 ロキの円舞曲(9)

 ゴールデンバウム王朝末期からローエングラム王朝初期のこの時代、人類はその過去において既に数度に渡って文明社会の統一を経験しており、それぞれの人種的特徴をときおり強く遺す者はいても、ほぼすべての人間が混血しており、人種的には単一と言えた。それに伴って、個人名も多くは銀河連邦の時代に当時の標準共通語において一般的な姓名に収斂しており、そのほとんどか、人類が地球表面のみにとどまっていた頃にヨーロッパと呼ばれた地域の固有名詞を名乗っていた。
 ラージ・センはその例外であって、バイルシュミットを姓として名乗っていた彼の祖先が銀河帝国から自由惑星同盟に亡命して以後、遠いインド系の祖先が名乗っていた姓を復活させて、センという家名ともども、インド系の名を名乗っていた。ただし彼自身はヨーロッパ人の特徴が強く出た風貌であり、赤毛の髪と碧の眼を持っていた。
 子供の時から成績優秀ではあったが、ハイネセン自治大学文学部で言語学を学んでいた大学二年生になるまでは、まずは平凡な人生であった。その年に、進路を決める材料の一環として、特殊なIQ試験を受けたことが、彼の平凡な人生に新たな彩を添えることになった。そのテストにおいて、混沌状態における直観力と情報の取捨選択能力において傑出した成績を挙げたことによって、彼はいくつかの政府機関から密かに注目される存在となった。同じ年、当時士官学校の士官候補生であったヤン・ウェンリーも同じ試験を受けて、やはり同じ項目で好成績を収めて、同盟軍の秘蔵っ子としてその首脳たちに認識されるようになったが、別の場所でもそういう扱いを受けた若者がいたわけである。
 ラージ・センの場合は接触してきたのは軍ではなく、法秩序委員会とそれに属する同盟警察であった。同盟警察には国内に潜伏した帝国のスパイを取り締まるカウンターインテリジェンス組織、特殊公安課が置かれていたが、その要員の補充は純粋にスカウトによってのみ行われていた。ラージ・センは表向きは学生のままで、まずはこの組織に所属し、いくつかの目覚ましい功績を挙げた。それによって数年のうちに警視になったセンは、新たに同組織が設置することになった対外諜報課の初期メンバーに抜擢され、小規模な捕虜交換の際に、「帝国軍人エーリッヒ・ブラウン少尉」として、銀河帝国に送り込まれることになった。
 こうした帰還将兵の扱いは、帝国では隔離されひどい扱いを受けることが多かったが、ラージ・セン、すなわちエーリッヒ・ブラウンの場合は帝国内に後ろ盾を得ていた。それがバルツァー伯爵家である。
 同家は金融を生業とするために情報収集に長けており、国内においては憲兵隊、国外においてもフェザーンや同盟の情報組織と接触があった。バルツァー伯爵家のそうした鵺のような性格を帝国憲兵隊もむろん把握していたが、非公式に情報組織間で接触するためには都合がよい存在であったので監視されながらも放置されていた。
 エーリッヒ・ブラウンはまず、バルツァー伯爵家の私的諜報組織の一員となり、そこから更に帝国軍に「復帰」したのであった。彼がバルツァー伯爵家の郎党であり、同盟のスパイであることを一部の者たちは把握していたが、そうであっても彼がそこにいることによって、帝国と同盟の間で微妙な意思調整が可能になり、その裏の役割によって存在を黙認されていた。
 ごく少数の者を除いて、彼の立場は掌握されておらず、その少数の者たちがローエングラム公の綱紀粛正によって組織から放逐された結果、ブラウン、ラージ・センというスパイの存在を示す情報と資料はケスラーには引き継がれなかった。それでもケスラーは独自調査によって、彼がバルツァー伯爵家の私的スパイであることは掴んでいたが、同盟との関係までは把握していなかった。
 もっとも、その後の自由惑星同盟の崩壊に伴い、エーリッヒ・ブラウンは母体とする組織を失ったことになる。バルツァー伯爵家にとっても、統一によってこれまでの足場が崩れる危機にさらされることになり、ブラウンを退役させて、同家の補佐に任じた。
 この時点でエーリッヒ・ブラウンはバルツァー伯爵家に仕える、バルツァー伯爵家の代理人以上の存在ではなくなったのだが、複雑な状況に身を置くだけにかえってスパイのメンタリティは単純でなければならず、ブラウンもまたそうであった。
 彼の忠誠の対象はあくまで自由惑星同盟のみにあり、それ以外の顔、銀河帝国軍人、バルツァー伯爵家代理人の立場はあくまでかりそめのものに過ぎなかった。
 混濁のオーディーンにおいて彼は、どうすれば既に無い自由惑星同盟の利益につながるかをのみ模索していたのであった。
 帝国同胞団のゾンネンフェルスがバルツァー伯爵に接触してきた時に、彼はこれを使えるのではないかと思いついた。旧帝国領が騒乱状態に陥ればそれだけノイエラントにかかる監視圧力は軽減され、その中で同盟の残党、例えばバーラト自治政府に何らかのフリーハンドを与えられるのではないかと考えた。オーディーンとハイネセンでの二正面作戦をフェザーンも避けたいはずであり、多少のことであれば交渉と黙認の中でハイネセンとの協調を買おうとするかも知れない。
 同盟という巨人は倒れたが、倒れたからと言って巨人が巨人でなくなるわけではない。その工業力は健在であり、しかもバーラト星系においても温存されていた。意思とわずかな時間的余裕があれば、さまざまな名目において数個艦隊を建造することは不可能ではないはずで、すでに市民の中に放逐されたとはいえ、実戦経験のある旧同盟軍将兵もいまだ多くが健在であった。
 あくまで状況次第であるが、もしオーディーンで叛乱を使嗾し、それが帝国領内に広がり、しかも容易に鎮圧されないのであれば、同盟の復活もまた決して夢物語ではなくなってくる。
 今ここで起つことを決断しなければ、バルツァー伯爵家の状況も尻すぼみに追いやられるであろうと伯爵を説得したのはブラウンであった。単なるボランティア団体にとどまっていては状況は変えられず、武装闘争に足場を移すべきであるとゾンネンフェルスに吹き込んだのもブラウンであった。
 実現の可能性やローエングラム王朝に対する忠誠などから当初は躊躇っていた彼らも次第次第にブラウンの言うがままになっていった。ブラウンが言っていたことは、単なる使嗾ではなく、事実であったからである。そのことは、彼らが彼ら自身で行動を決定したのだという思い込みを強化する作用を持ち、ブラウンに操縦されていることを彼ら自身は知覚できなくなっていた。
「百万の流民を組織化し、革命軍の母胎とする」
 この構想の下に、慎重に身を隠しながらブラウンが邁進している時に、ゾンネンフェルスのところにいるクロジンデを尋ねて、オリビエ・ポプランを名乗る男が接触してきたことをブラウンは見逃さなかった。
 ヤン・ウェンリーの股肱の部下であり、バーラト自治政府首脳陣と深いつながりがあるその男の名を聞いた時、ブラウン、すなわち同盟警察警視であるラージ・センはその男を決して逃さないことを既に決意していた。