Struggles of the Empire 第1章 伝説の終焉(2)

 新帝国暦3年7月26日23時29分、皇帝ラインハルト崩御
 既に先帝となったラインハルトが生前発していた勅令に従って、直ちに新帝アレクサンデル・ジークフリードが即位、皇后ヒルデガルドが摂政皇太后として、君主の権能のすべてを引き継いだ。夫の死によって、今や全人類の頭上に君臨する絶対専制君主となったヒルダがまず行ったことは、半時間ほど夫の枕元に寄り添い、その巻毛の金髪を撫でることだった。
 比類なき覇者にして英邁なる君主の死に慟哭する者は多かったが、個人的な苦痛としてこの喪失を受け止める資格がある者がいるとすれば、それは銀河系に3名のみであっただろう。もっとも、そのうちのひとり、父から帝位を引き継いだアレクサンデル・ジークフリードは幼すぎて、喪失を喪失としては意識は出来なかっただろうが。
 グリューネワルト大公妃アンネローゼにとって、ラインハルトはただひとりの弟であった。その弟は、姉を救出すべく旧帝国を滅ぼさんことを志し、それを実行した。成し遂げたことの巨大さに比して、その生涯のなんと短かったことか。自分のために生き急がせたかのような思いがして、アンネローゼの胸中にはただの喪失感ではない、ただの悲痛ではない、鋭い痛みによってさいなまれるような思いが広がっていた。今、こうしてすべてを終えて安らかに眠る弟の姿を見ていると、電気も停められたあの家で、寝つくまで傍らにアンネローゼがいることを望んだ小さな少年そのままのような気がして、アンネローゼは突き上げてくるこらえきれない思いに、拭ってはまた何度も涙を溢れさせた。
「さあ、ヒルダさん。こちらは侍従の方がたにお任せして、少し休みましょう。明日からは私たちだけでやっていかなければならないのですから」
 そう促されて、ヒルダは絶望の宣告をなされたかのように、深い悲しみと驚愕が混じった表情を浮かべた。
「アンネローゼさま。もう少しだけ、もう少しだけここに居させてください」
 その表情を見て、アンネローゼはラインハルトの死を自分よりも悲しんでいる者が少なくともここにひとりいることを知った。1年と満たない結婚生活ながら、夫婦には余人には入り込めない絆があるのだろう。これから先のいつはてるとも知れない、長い寡婦としてのヒルダの生活がここから始まるのだ。
 アンネローゼはヒルダの肩を抱いた。
「私にできることがあったらなんでもおっしゃって。私たちは姉妹なのですから」
「ありがとうございます、アンネローゼ様、いえ、お姉さま」
「今日のところは私は休ませていただきます。あなたもマリーンドルフ伯もお忙しくなるのですから、アレクのことは私にお任せください」
 ヒルダはアンネローゼの厚情を謝し、アンネローゼの言葉に甘えることにした。アンネローゼが自室に退出すると、マリーンドルフ伯が入れ替わりにヒルダの傍らに座り、言った。
ヒルダ。今のお前にこう言わなければならないのは父親としては辛いことだが、摂政皇太后として至急に処理して貰わなければならない案件がある。カイザーのみならずオーベルシュタイン元帥が斃れ、帝国軍の指揮系統は混乱している。とりあえず、ミッターマイヤー元帥に三長官職権限の代行をお願いしたいと思うが、それでいいかね?」
「ええ、それでお願いします」
「上級大将以上の提督を元帥に叙すよう、陛下のご遺命があった。事後の相談に加わっていただく都合上、正式の叙任式は後日執り行うとして、直ちに書類上は昇進させたいと思うが、よろしいかね?」
「はい、異存はありません」
「もうひとつ、陛下が軍人であらせられたことを鑑みて、葬儀の手配は内閣と七元帥の合議で執り行いたいと思うが、いいかね?」
「お父様にお任せいたします」
 ヒルダは渡された何枚かの書類に署名をすると、それをマリーンドルフ伯に渡し、マリーンドルフ伯は待機していた内閣書記官長のマインホフにそれを委ねた。それらの文書は摂政皇太后としてのヒルダの最初の発令であった。
ヒルダ。おまえの悲しみがいかほどのものか、私も妻を失った身なれば分かる。ましてあれほど偉大な人物が夫だったのだ。おまえの痛みはどれほどのものだろう。愛する者を失って、立ち直るには人は長い月日がかかる。ついには立ち直れない者もたくさんいる。未来に立ち上がるために、今日のこの時は嘆き悲しんで当然だし、そうするべきだろう。しかし国務尚書としては、おまえに非道なことを言わなければならない。陛下の病により、すでに政治は停滞している。そう、明日からでも、おまえにはやらなければならないことが山ほどある。ヒルダ。可哀想なヒルダ。おまえには嘆き悲しむ時間さえも、今日この時にしか与えられないのだ。こらえてくれ。おまえは銀河帝国の君主なのだから」
 摂政皇太后ヒルデガルド。ラインハルトの没後に彼女に与えられるべき地位がどのようなものであるのか、すでに議論が尽くされていた。彼女自身に女帝としての能力があることは疑うべくもなかったが、皇帝の配偶者を女帝とすることには将来の災禍を引き起こす懸念があった。それで、幼帝を補佐する摂政皇太后という立場に落ち着いたが、実質的には彼女が女帝であった。
 歴史は彼女を端的に女帝ヒルダと呼ぶことがあったが、これは実質を重視しての呼称である。
「お父様、私は明日が来るのか怖い。おそろしくてならないの」
「どうした。おまえらしくもない。いつも冒険心にとんで、うまく乗り越えて来たじゃないか」
「誰かを補佐することと、自分で、自分一人で立つということは全然違うことだわ。今になって私はそのことを思い知っているところなの。陛下を失って、夫を亡くして、どうして私は立っていられるのかしら」
「大丈夫、おまえはきっとうまくやれるよ」
 明日になれば、ヒルダは毅然として立ち上がるだろう。そして皇帝ラインハルトが後継者と見込んだに相応しい実質を示してゆくであろう。しかしそつなくこなしているように見える者が、内心のおののきを抱えていないとは誰にも言えないのである。自らの判断ひとつで、何百万、何千万、何億という人々の運命を左右するその責任の重さに、ヒルダは決して慣れはしないだろう。その重さを重さとして抱えたまま、彼女は自分の名をもって呼ばれる時代を築いていかなければならないのだ。
 やがて、その部屋からは人が去り、ヒルダとその夫だけが残される。朝までほんの二三時間、それがこの夫婦に与えられた最後の時間であった。